工業高校が地方小都市を再生する
山形県長井工業高校で行われている、地域活性への学校としての取り組みの成果について、今までに3回掲載しました。
今回が4回目です。
NikkeiBPの記事をそのままに掲載してきました。
それは、なまであればあるほどに、素直に伝えていけることと踏まえて、今の日本社会での大きな課題を提起してくれているからです。
今日も、そのことを踏襲し、記事にしました。
私は今の仕事を通して、地域に育ついくつかのことを見てきています。
地域って、行政におんぶの市民から、積極的に行政へ提案される地域。
そして、地域独自で取り組まれてきたことで、そこを「子供たちのふるさと」と言えるまでに作り上げられた地域。
さまざまです。
その代表的な、官民一体型の地域おこしだと思ってます。
最終章での「普通の子を育てるのは、周りの大人」は、今、社会に欠けていることと思える考え方だと思います。
〜誰が「普通の子」の幸せを考えるのか
(1回目、2回目、3回目から読む)
廃校危機にまで陥った工業高校が、同じく苦境を迎えた地元地域の支えを得て、実践的なものづくり教育で再生しつつある。
これまで3回にわたり、山形県立長井工業高校のキャリア教育物語を紹介してきた。
筆者が取材の過程でもっとも強く感じたのは、学校づくり、まちづくりに賭ける関係者の静かな熱意だ。
率直に言って、長井で行われていることは特に目新しい内容ではない。
画期的なカリキュラム、教育方法で飛躍的に生徒の学力が伸びた、といった派手なサクセスストーリーもない。
あるのは強い危機感と、それをバネにした長期的で遠大な構想。再生に向かい、それぞれが自分の持ち場で、今できることを地道にやろうとする粘り強さだ。
長井工業高校のキャリア教育の意義、成果が、本当の意味で評価されるのは10年、20年先のことだろう。
しかし現段階でも、同校から社会に巣立った若者の証言を得ることで、その教育経験がのちの人生に与えた影響について考察するヒントを得られるのではないか。そう考えた筆者は、取材の最後に、1990年代〜2000年前後の転換期にあった長井工業高校で学び、現在も長井市内で暮らす若者に話を聞いてみることにした。
一人目は、2002年春に電子システム科を卒業した五十嵐早苗さんだ。
現在、五十嵐さんは、当連載で何度もご登場いただいた長井工業高校体育文化後援会会長の吉田功さんが経営する吉田製作所に勤めている。
担当は、ワイヤーカット放電加工機という装置を駆使した精細金属部品の製造だ。
顧客からの厳しい精度要求に応える製品づくりには、コンピュータプログラミングの専門知識と、装置の「くせ」を知り尽くし微調整しながら使いこなす職人技が求められる。

「ものづくりの仕事は飽きることがない」と語る五十嵐早苗さん(撮影・佐藤)
一日の仕事を終えた後に取材に対応してくれた五十嵐さんは、けっして多弁ではないが、質問に対しては正確に、誠実に答えてくれる、芯の強さを感じさせる女性だった。
コツコツと丹念にものづくりをする仕事には、ぴったりの適性がありそうな印象だ。
前後の工程担当者との細かい打ち合わせが不可欠な業務だが、職場の先輩たちとのコミュニケーションも丁寧で、信頼できる仕事をしている、という評判を聞くことができた。
長井市内で両親と姉一人の家庭に育った五十嵐さんは、高校進学段階で自分の将来についてはっきりした見通しを持っていたわけではなかった。
ただ、できれば早く地元で就職して自立したいと考えていたこと、パソコンに興味があったことから、長井工業高校を志望した。
一般的には珍しい女子の工業高校進学についても、抵抗感はなかったという。
「親は、地元の公立なら安心だし経済的にも助かるという意見でした。米沢あたりまで通えないことはないんですが、片道1時間はかかります。第三セクターの長井線で通学となると、交通費もばかになりませんから。市内には長井工業高校と長井高校があるんですが、進学校の長井高校はちょっと大変。それならコンピュータ技術が学べる長井工業高校がいいと思いました」
「中学校の先生は、やりたいことがはっきりしているならいい学校だよ、と言ってくれました。毎年先輩もたくさん進む学校ですし、電子科なら女子も学年に十数人はいると聞いていたので、特に不安はありませんでした」
「打てば響く」生徒たちは「あの高校に行きたい」という気持ちから
当時の長井工業高校は、廃校危機を何とか乗り越えた時期。
学校と地域がコミュニケーションを深め、産業界や親たちの声を生かした学校づくりが進められたことは第2回で述べた。
県内の高校としてはじめて国家資格である技能検定合格者が出たのは、五十嵐さんが中学3年生だった1998年秋のことだ。
五十嵐さんの両親や中学校教員が長井工業高校への進学を後押ししたのも、こうした学校の姿勢が地域で評判になっていたせいかもしれない。
五十嵐さんは、機械・電子・化学工学の旧3学科で募集が行われた最後の年度(1999年)の入学生にあたる。
2年生まで旧校舎で学び、3年生になったときに新校舎に移った。
在学中、大きな過渡期にあった長井工業高校を、一生徒としてどのように見ていたのだろうか。
「私の下の学年から福祉システム科が新設され、女子が一気に増えたのはよく覚えています。学校の雰囲気が明るく、行事なども盛り上がるようになりましたから。印象に残っているのは、この時期から生活指導がちょっと厳しくなったことです。悪い意味ではなく、先生方の『気合い』のスイッチが入ったというか……。服装の乱れ一つにしても、きちんとチェックされるようになりました。今思えば、校舎が新しくなったのをきっかけに、学校を生まれ変わらせようと燃えていたのかなと思います」
この五十嵐さんの回想に関しては、別の学校関係者の興味深い証言もある。
学科再編が行われた2000年ごろから、「打てば響く」生徒が増えた。
結果、授業のみならず部活や行事、学級運営等でも教員の指導が空回りせず、学校が活気づいたというのだ。
この時期、同校の入学難易度が急に上がったわけではない。
ただ客観的に言えるのは、市内の中学校出身者を中心に、長井工業高校を「主体的に選んで」入学した生徒が増えたことだ。
五十嵐さんに、卒業後6年目の現在から振り返って、長井工業高校に行って良かったと思うことを尋ねてみた。
すると二つの点について答が返ってきた。
「まず一つは、いまの仕事にもつながる、いろいろな実習授業を経験できたことです。長井工業高校では、電子科の生徒も、機械を使った加工など、幅広くものづくりの基礎を学ぶカリキュラムが組まれていました。もともとパソコンを使った情報工学のようなことに関心があったんですが、やってみると工作のようなものづくりも意外におもしろくて。もちろん教科書を使った授業もたくさんあるんですが、印象に残っているのは頑張って寸法どおりの作品を仕上げたときのうれしさですね」
「もう一つは、いい仲間がたくさんできたことです。生徒会の役員をしたり、剣道部のマネージャーをしたりで、同じ学年だけでなく、上級生とも下級生とも仲良くなれました。特に女子同士は、人数が多くなかったこともあって、中学時代にあまり話したことがなかった子とも深い話をするようになりました。実習の授業は、共同作業が多く、いろいろ助け合う機会もあります。正直、私はもともとそんなに社交的な性格ではないんです。でも少しずつですが、人間関係の中で自然に自分を出せるようになりました」
高校が同世代の絆を育んだ
二点目については注釈を加えておきたい。
長井のような小さなまちでは、そこに暮らす同世代の絆の意味が、都会以上に大きい。
特に長井工業高校は、卒業生の多くが地元のコミュニティで生きていくことを暗黙のうちに想定している学校だ。
そう考えると、五十嵐さんがここで仲間を得たことを強調した意味が響いてくる。筆者は、五十嵐さんの中に、長く人生の支えとなる友人を得られたことへの思いがあるのではないかと想像した。こうした側面は、地方部の、特に実業系高校の存在意義として、けっして無視できない要素だと思う。
五十嵐さんが長井工業高校を卒業し、現在の職場への就職を決めた経緯について。
当時(2000年代初頭)は、けっして高卒者の求人市場が活性化していた時期ではなかった。
しかし地域での存在感を徐々に増していた長井工業高校には、長井市内、山形県内の企業を中心に少なくない求人票が届いていた。
その中で五十嵐さんが吉田製作所を選んだのは、担任教員のすすめが決め手だったという。
「先生に、コンピュータを使う仕事をしていたいと希望を伝えていたんです。それを覚えていてくれて、長井工業高校の先輩もたくさんいるし、責任を持ってすすめられる会社だから試験を受けてみたらどうかと言われて。実際に現場も見学させてもらい、雰囲気がよく仕事にも興味を持てそうだったので、お世話になることに決めました。後で聞いたところ、会社側としても女性を採用したいという考えがあったそうです。先生も早い時期から、この会社に私をと考えていてくれたのかもしれません」
求人票ではなく、まちなかで顔を合わせる関係性
強調したいのは、長井工業高校では、求人票という無味乾燥な書面を通じて学校と地元求人企業がつながっているわけではないことだ。
吉田製作所の場合、約30名の従業員のうち長井工業高校の卒業生が約半数を占める。
各年代にこれだけ卒業生がいれば、当然双方の理解と信頼は深まる。
社長と教員、同校OB従業員と教員が、まちなかで顔を合わせて雑談をかわすことも珍しくない。
そんな密接な関係があるから、学校は企業の業務内容はもちろん、経営者の考え方や社風、将来性など、ナマの企業情報を把握し、生徒に就職を斡旋できる。
教員は、一人の人間として、「あの会社なら頑張り甲斐がある」と心から思い、卒業生を送り出せるのだ。長井工業高校のキャリア教育が、最終的にきちんとした進路指導にまでつなげられるのは、この強みによるところが大きい。
ちなみにこのとき女子を求人・採用した理由について、吉田製作所の吉田功社長は「これからの製造業では、現場レベルでも女性の活用を進める必要があるから」と説明する。
ものづくりの現場もオートメーション化が進み、3K仕事的要素は減ってきた。
むしろ高機能化が進む装置の使いこなし等、新しい知識や技術を貪欲に学ぶ積極性、それを実践に生かせる緻密な思考力等が必要とされる。
五十嵐さんの場合、最新装置を扱うために必要なコンピュータプログラミングの基礎力が買われて採用が決まった。
少子高齢化で人手不足が恒常化し、国内工業の「知識産業化」はますます進む。
そんな時代を見通すと、女性を活用する戦略が必ず必要になる。
五十嵐さんには、そうした時代のさきがけとして、後進のロールモデルとなるような活躍が期待されている。
長井工業高校を卒業し、現在も長井市に暮らす若者への取材。
続いて横山直幸さんを紹介しよう。横山さんは、地元農家産有機野菜の展示即売等を行いつつ、地域住民の交流空間としても機能している長井村塾で事業部長をつとめている。
青森県内の大学を卒業し、東京の電子機器メーカーでエンジニア生活を送っていたが、故郷にUターンする道を選んだという経歴の持ち主だ。
長井村塾を開いた父親の影響でまちづくり活動に関心が高く、次世代の地域リーダーとしても期待されている。
ロボットとの出会いで進学先を決める
現在33歳の横山さんが長井工業高校電子科に学んだのは1990年代前半のこと。
同校が廃校危機を迎える少し前の時期にあたる。
氏の証言は、この数年後から一気に進んだ改革の背景を考える上で興味深い。
なぜなら、もともとこの学校が持っていたものづくり教育のDNAを読み取ることができるからだ。
横山さんが長井工業高校へ進んだのは、中学校三年生のときに進路相談室で一台のロボットに出会ったことがきっかけだった。
「人と人の出会いで長井に化学反応を起こしたい」と語る横山さん(撮影・佐藤)
「マイクロマウスというんですが、小さなボディに車輪が着いていて、狭い場所でもセンサーで障害物を感知し、自力で器用に走っていく。ラジコンをいじるのが好きな子どもだったので、これはすごい、おもしろいと一発で心を奪われてしまったんです。中学の先生に聞いたら、長井工業高校では授業でこういうロボットを設計してつくっているという。それなら僕もやってみたい、絶対にその学校に行きたいと。その場で進路を決めてしまいました」
この話にはオチがある。
長井工業高校でマイクロマウス製作を行っているのは授業の時間ではなく、電算機部の部活動だったのだ。
横山さんはさっそくこの部に入り、文字通り朝から晩までロボットづけの日々を送るようになる。
「通常の部活の時間では足りなくて、朝始業前、昼休み、放課後、夏休みなど、顧問の先生のもとに入り浸り状態でした。校外のコンテスト、大会には、先生と生徒が別々に作品を出すんです。生徒は先生よりいい成績をおさめて鼻をあかしてやろうと頑張る。先生もメンツにかけて生徒には負けられないと研究を重ねておられました。笑い話ですが、生徒もライバルだからと、重要な部分は秘密にして教えてくれなかったり。生徒の自発性を刺激しやる気を引き出すよう指導してくださったのだと思います。おかげで全国大会出場という貴重な経験もできました」
のちにエンジニアの道に進んだ横山さんが、基礎的な技術力を身につけた場所として振り返るのが、この長井工業高校でのロボットづくり活動だ。
ICチップなど最先端の工業製品の設計も、突き詰めればここで学んだ電子回路の応用、組み合わせにすぎない。
電気電子と機械を融合させるメカトロニクスのセンスも、実際にさまざまな領域の知識と技術を駆使するものづくりの中で体得された、という。
「長井工業高校の先生方は、基礎知識がほぼゼロの生徒にも感覚的にわかる教える方を工夫していました。たとえば電子回路と電流は、ゴムホースに水を流してイメージをつかませる。ホースの端を握ると水が勢いよく飛ぶことから抵抗や電圧の概念を理解させるわけです。教科書の図面は、必ず実際に回路をつくり、生徒に触らせながら授業していました。段階を踏んで、とにかく体験、体験、体験を重視していた印象があります」
とにかく体験、体験、体験」。カギは課題研究の活用
長井工業高校のカリキュラムの最大の特色が、ものづくりのおもしろさ伝授を核にした目標設定、学習の動機づけにあることは繰り返し述べてきた。
しかしそのための指導法は、一朝一夕に得られるものではない。
長井工業高校では、廃校危機を迎え大きな改革を行った90年代なかばのずっと以前から、生徒体験型の授業を行っていた。
横山さんが語ってくれた授業の思い出も、そうした伝統の一例といえる。
やや話が横道にそれるが、長井工業高校では、2、3学年次のカリキュラムに、課題研究の時間が採り入れられている。
これは、生徒それぞれが自身の課題に沿ったものづくり学習を行う時間だ。
連載第1回で紹介した技能検定受験のための準備、各種ものづくりコンテストに向けた作品の製作もこの時間をフル活用して行われている。その他、環境システム科の生徒が長井市内の小中学校を訪れ出前測量を行ったり、福祉システム科の生徒が高齢者施設を訪問するなど、地域に密接に結びついた総合学習に使われることもある。
長井工業高校が実践的教育を行える秘密は、この課題研究の活用法に象徴されている。
つまり現場に総合学習的な自由裁量が与えられており、教員がそれを十分に有効活用するノウハウと実力を持っているのだ。
まちの交流空間である長井村塾にて父親の寛道さんと(撮影・佐藤)
話題を戻そう。
高校時代を通じロボットに魅せられた横山さんは、その興味関心の延長線上で大学工学部に進学し、卒業後東京の電子機器メーカーでエンジニアになる。
ではなぜ、そうした順調なキャリアを捨て、30歳を目前に地元長井市へのUターンを決意したのか。
直接の理由は、「あわただしい都会より田舎のライフスタイルが合っているから」「父親が長井村塾でまちおこし事業をはじめ、その考え方に共感したから」だという。
しかしその背景には、長井工業高校時代の体験に基づく、人生への価値観があった。
「長井工業高校在学中、ロボット製作つながりで、地域の内外に大人の知り合いがたくさんできたんです。大会に出場すると、参加者同士技術情報の交流などで盛り上がり、いっぺんに仲良しになりますから。まして私はまだ高校生だったので、全国のロボットマニア、大学やメーカーのロボットを研究者など、いろんな方に声をかけてもらう機会が多かった。その触れ合いが本当に楽しくて、自分が成長できた実感がすごくあったんです」
一度きりの人生を、生まれ育った町で、人と人とをつなぎたい
「メーカーの仕事そのものはとてもおもしろかった。でも、このまま進んでいっていいのかという思いがずっとありました。サラリーマン技術者である限り、目の前の課題に追われ、納期に製品を仕上げることが最優先なのは当然です。でもいつの間にか、それで精一杯になってしまいました。一度きりの人生なら、何かもっとおもしろいことができないかと考えるようになっていったんです」
「そこで思い出したのが生まれ育った長井のことでした。ほうっておけば寂れていくだろうふるさとで、人と出会い、人と人をつなぐ、やりがいある仕事ができないか。自分の強みである技術力を生かす道は、その中で探っていくこともできるんじゃないか。いつしかそんな気持ちがだんだん高まって、長井に帰る決意をしました」
長井市が、ロボット技術を旗印にした工業都市としてのブランド化をはかっていることはすでに述べた。
帰郷後の横山さんは、長井村塾の活動のかたわら、このロボットプロジェクトに深く関わり、中核メンバーとして活躍している。
2006年、長井市が「ROBO-ONE」全国大会を招致した際にも、横山さんが企画、実務に果たした役割は大きかった。
全国から集まった参加者は、横山さんら地元スタッフのもてなしに、皆「長井ファン」になって帰路についたという。
その他にも横山さんは、長井市を中心にした山形県西置賜地区の若手技術者、若手経営者のネットワーク化にも力を入れ、精力的に飛び回っている。
これらはいずれも未来の長井が技術・技能のまちとして自立していくための種まき作業といえる。
個人の成長が新しい「社会」を生んでいく
母校長井工業高校の依頼を受け講演、技術指導を行ったり、子どもたちにロボット遊び、ロボットづくりのおもしろさを伝えるイベントを開催したり、横山さんの日々は多忙だ。長井市の祭りをハンディカメラとインターネットで生中継する、フラワー長井線に無線LAN対応車輌を整備するなど、長井ブランドの全国への情報発信にも一役買っている。
まちおこしのイベントプロデューサー兼、それを実現する現場技術者といえばいいだろうか。
さらに今度は、長井を「ジャズの町」として盛り上げるプロジェクトも企画しているという。
「もともと長井はジャズが盛んな土地柄で、数十年前、まちの景気がよかったころには有名ジャズメンを招いてのライブをやっていたんです。その伝統を復活させようと、私自身も加わって20代、30代の若い連中がバンドを組みました。ジャズつながりでいろんな人と話をするうち、ものづくり、ロボットにこだわってまちづくりをする必要はないと思うようになりました。きっかけは何でもいい。ジャズという新しい接点で人と人がつながれば、またちがった化学変化が起きるかもしれない。そんなふうに期待しています」
横山さんのキャリアは一般的なものではないかもしれない。
しかし、長井工業高校でものづくりのおもしろさに感動し、そこから開けた道を一歩一歩進む中で得た自信や感動が、現在の氏の活躍の核になっていることは事実だ。
キャリア教育というと、一般的には「個人が生きていく力をいかに育てるか」というテーマのように考えられる。
しかし横山さんの話を聞いていると、個人の成長が核になり、それが相互につながることで、「新しい社会が育まれていく」イメージも湧いてくる。
これぞまさに、長井工業高校のキャリア教育が夢として目指している方向性なのではないだろうか。筆者はそんなことも感じた。
以上、全4回にわたり長井工業高校レポートをお届けしてきた。
最後に、筆者の感想をまじえつつ、自身の宿題を記しておく。
いずれも勉強不足、取材不足で未消化、未整理に終わったと認識しているテーマだ。これらについては、今後、あらためて追究していきたい。
“長井工業方式”がある、と考えてはいけない
まずひとつ。1990年代なかばに長井工業高校が直面した「危機」は、ここ十数年、日本全国の地域社会と教育現場の接点で生まれたきしみの象徴といっていいと思う。
長井工業高校は、多くの関係者の努力によって、再生に向けた道を歩み始めた。
しかしその背景には、長井という地域が特殊な条件に恵まれている幸運があったのではないか。
言い方を換えるなら、その他多くの高校がそのまま長井工業高校のマネをしようとしても、成功の道は険しいと筆者は考える。
第3回で詳しく述べたように、長井には企業城下町としての歴史の遺産というべき高い技術力を持つ中小企業群がある。
長井工業高校のものづくり教育、キャリア教育は、この地域産業界の有形無形の支援があったからこそ成り立った。
そしてそれ以上に重要なのは、これら企業群が、そのまま同校卒業生の有力な就職先になっていることだ。
いま地方部の高校で、このように地域に就職先が十分にあるところはほとんどないはずだ。
人手不足で高校生への求人が増えているというニュースも、日本中でごく一部の例外的に景気がいい地域にしかあてはまらない。
高卒でまともな就職がないからと、ひとまず大学や専門学校へ進学したとしても、結局は問題の先送りにすぎない。
高卒であろうと大卒であろうと「田舎にはろくな就職先はほとんどない」のが現状だからだ。
若者が「学校から企業社会へ」スムーズな移行を果たすには、学校側の努力だけでなく、企業社会側の受け入れ態勢がカギになる。
長井工業高校の事例では、地域の産業界、地域の大人たちが、ある意味では学校関係者以上に、この点を真剣に考えていた。
これは非常に重要なポイントとして強調しておきたい。
社会の受け皿なくして、キャリア教育は成り立たない
仮に学校がいくらいい教育を行い、生徒にキャリアを切りひらく力をつけさせてやったとしても、社会にその力を発揮していく場がない。
だとしたら、キャリア教育とは一体何のためにあるのか。
この点を抜きにキャリア教育を考えても意味がないと筆者は思った。
筆者の感想、宿題の第二点目は、長井工業高校のものづくり教育で養成される生徒の能力と、これからの社会で求められる実践的な能力のギャップについてだ。
さらに踏み込んで言うなら、工業高校からそのまま就職、という従来多数派だったキャリア形成を自明のものにせず、大学等への進学の道を広げていく動きをどう考えるかだ。
この点については、みずからも地域の工場経営者である吉田功さんの声を聞いてほしい。
「正直な話、これからの時代、基礎的なものづくり技能を身につけていても、それだけで一生食べていくのは難しいですよ。よほどの名職人になればともかく、そんな仕事はどんどん外国にとられていく。この流れは止まりません。日本人は、もっと付加価値の高い仕事をしないと生き残れない。昔は工業高校卒業ベースで、幸福な人生を考えられた。でも、今はそれじゃ足りない。工業高校で学ぶレベルはあくまで基礎の基礎。その上にどれだけ知識と技術を積み上げられるかが勝負になる」
「これは単に若者の将来を心配して、他人事として言っているんじゃない。長井の産業界の人材育成の課題として言っているんです。長井工業高校からも、大学なりに進んで、現場のものづくりの上流にあたる設計、開発などの専門知識を学ぶ人がたくさん出てきてほしい。そういう人材が長井の企業に入り、発注元の大メーカーの社員と対等にわたりあえるようにならないと、地域全体の将来が行き詰ってしまう」
卒業生の4割は進学を選ぶようになった
この問題意識は、長井工業高校側にもある。
進路指導は、あくまで本人の希望をかなえるようサポートするのが基本方針。
その上で「工学部等への大学進学希望者には、個別に徹底的に補習を行う等、特別の体制を組んで指導にあたっている」(渡部教頭=2008年4月より校長)。
結果、現在では卒業生の約6割が就職、4割が進学という進路状況になっている。
2007年春には、学校創立以来はじめて、県唯一の国立大学である山形大学工学部に一般入試から合格者を出した。
また2008年には、私立東北芸術工科大学との間で教育交流協定も締結した。
今後教育実践・研究に関する情報交換および交流、大学教員の高校への出張講義や遠隔講義、生徒の大学での講義等の聴講などを行っていく予定だ。
長井工業高校では、県内を中心に、さらに多くの大学や短大とパートナーシップを組むことも検討しているという。
高校から大学への接続に関しては、いわゆる大学全入時代を迎え、大学側も学生の確保に必死になっている。
工業高校等も含めた多様な高校からの入学者受け入れのため、推薦入学制度なども充実してきた。
ただし、少なからずの大学でそれがたんなる入学定員充足に向けた人数合わせになってしまっている現実もある。
キャリア教育を実効性あるものにしていく教育機関同士の連携はどこまで進んでいるのだろう。ポジとネガの両面を冷静に検討する必要がある。
三点目の宿題。
これはより根本的なテーマだ。筆者に考える機会を与えてくれたのは、またも吉田功さんの言葉だった。
「誤解される言い方かもしれないけれども……この世に生まれて、誰もが総理大臣や弁護士や医者や大会社の社長になれるわけじゃない。たまたま小さな田舎町に生まれた。家はお金持ちじゃない。勉強はあまり好きじゃない。特別な才能があるわけじゃない。そんな子もたくさんいる。むしろそっちの方が多数派でしょう」
「日本が右肩上がりの時代にはなんとかなった。そんな連中も、本人なりに頑張れば幸せになれた。でもこれからはそんなに甘くない。誰かが、彼ら彼女らの幸せな人生を真剣に考えなくちゃ。そのための教育が必要なんじゃないですか。ところがいまの教育論は、肝心のそこを忘れているんじゃないか」
「普通の子」の幸せを考えるのは、普通の子の周りの大人だ
吉田さんの、きわめて「正直な」この発言は、長井工業高校の教育実践、長井のまちの人材育成にこめられた思いをズバリ言い当てていると思う。
もちろん吉田さんだけではない。
取材を通じて出会った長井の人びとは、皆こうした認識を共有していた。
筆者はその重みをあらためて実感している。
経済のグローバル化が進み、産業構造が大きく変化して、日本人の「仕事」「働き方」はすっかり様変わりした。
高度成長期には共存共栄の建前が保たれていた都市部と地方部の格差が拡大した。
キャリア形成能力と直結して個人間の「勝ち組」「負け組」格差も広がった。
そして社会はますます流動的に変化し、将来の見通しは不透明になっている。
そんな今考えるべきなのは、吉田さんが言う、「田舎の」「金持ちじゃない家の」「特別な才能もない」子ども、若者のキャリアを保障する教育とは何か、というテーマではないか。少し一般化して、「人間と社会を底から下支えするキャリア教育とは何か」と言い換えてもいい。
これは長井のひとびとに限らず、日本人全体が直面している巨大な課題であるはずだ。筆者も、また別の教育現場に足を運び、考えを深めていくつもりだ。
(文/松田尚之 撮影/佐藤類 編集/連結社)