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プロフィール
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せつこ
自己紹介
 関西圏の映画館を主にうろつく。
 洋画をDVDで借りてくると、つい字幕より日本語吹替を選んでしまう。吹替のキャストはどうしてきちんと表示しないのでしょうか。

 贔屓の俳優はジェフリー・ラッシュ、アラン・リックマン、ケイト・ブランシェット、日本の俳優ですと岸部一徳。

性別
女性
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2010-06-03 (木)
「エコール」覚え書きと感想の感想          カルチャー /映画

 今回は数年前に見た映画について語った、感想とは少し違うものなので、間違い等がかなり有るかもしれない事をまずお断りします。書いていいのかそれ。


 「エコール」(2004年、フランス)は何の説明も無く森の中の学校を中心とした閉鎖的空間に送られた少女達が、そこで成長していく様子を描いた作品だが、私は公開当時観に行ってノートのようなパンフレットも買った。今探すとちゃんとありました。
 昨日、ふとしたきっかけでこの作品の感想を色々と読んで回った。
 登場する少女達に同調するか、俯瞰の視点で見るかで大きくその感想は分かれる。後者ははっきりと幼女趣味の観点から語られている方もいる。
 この映画を作る際、製作者がロリータ・コンプレックスを意識しなかったといえば嘘になるだろうが、同時に少女期の意識の移り変わりも意識していて、見る人間によって如何様にでも受け取れる曖昧な作りになっている為だろう。

 私ははっきりと主観視点で見ていたので、これは少女の意識の変遷を抽象的に描いた作品なのか、と思った。根底にあるのは少女の現実なので、幻のような風景が辛うじてただの空想で終わるのを防いでいる。
 感想を読んでいて興味深かったのは、俯瞰視点の方の、主観視点の人はこの映画のロリコン要素を否定する、という意見があった事だが、その一方で、少女達が姓対象とされている事については語っているが、その少女達にも自意識、特に性への意識がある事に目を向けていない事だ。ビアンカと手袋の場面だけでなく、男が介在しなくても少女達がはっきりと女をむき出しにする場面がそこかしこにあるのに。

 とはいえ私も俯瞰視点でない為に見落とした事がある筈で、主観と俯瞰の二面性を無視すると、この映画の全貌は真に理解したとはいえないのではないだろうか、とふと思った。
 


沿線や駅、地域、価格帯など、豊富な選択肢でご希望の暮らしがきっと見つかる!

by せつこ at 13:23 │comment (0)TrackBack (0)
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2010-05-13 (木)
「ベン・ハー」          カルチャー /映画

「ベン・ハー」(1959年、アメリカ映画)

 ところで前回の感想がですます調だったのは、最近、アメーバのなうで語っている調子でそのまま書いてしまったからです。今回からはまたいつもの調子に戻します。

 いつかに堂々の三時間四十五分の枠でテレビ放映されたものを、まず一時間半位までは少しずつ少しずつ鑑賞して、残り二時間分は一気に観たものである。
 最初から裏設定のネタバレによる懺悔から始まるが、この大作を観る事になったきっかけは今市子「萌えの死角」(日本文芸社)であった。
 「実は友人のメッサーラはベン・ハーが好きだった。最期も己の命よりもベン・ハーに愛されないよりはと憎しみを刻み付ける事を優先させたが為に死んでいく。なおこの設定はベン・ハー役のチャールトン・へストンには知らされず、メッサーラ役のスティーヴン・ボイドにのみ知らされた」
 鑑賞後、念の為調べたらこれは本当の事だそうだ。しかも「セルロイド・クローゼット」というドキュメンタリー映画にはもっと凄い設定が紹介されているという事なので、今度観てみる事にした。
 は置いておいて、「ベン・ハー」に戻ろう。私はその設定を知って、何と素敵な話だと、俄然、それまではやたらめったら長いと聞いて何となく敬遠していたこの映画を見る気になったのだった。ごめんなさい。
 敬遠していた理由の一つが、主演のチャールトン・へストンを目にした前の映画が「ボウリング・フォー・コロンバイン」だった事もあったりするが、やはり言い訳だろう。


 さて、通して観たのだが、やはり観終わると「名作と呼ばれるにふさわしい大作だった」の一言に尽きるだろう。
 で、ここで私が今更感想を語ったところで他の方の二番煎じになる事は避けられないがとりあえず書こう。
 少しずつ見ていたので、却ってこの長時間に渡る作品が、きっかりと時間を区切って作ってあるのが分かった。簡単にざっくりと並べてみよう。間違ってたらごめんなさい。

・人物紹介、状況描写
・発端、状況の暗転
・ガレー船からの這い上がりと帰還
・帰郷と故郷での現状整理
・戦車レース準備
・戦車レース
・キリストの死と復讐の終焉

 きっかり観ながら時間を計った訳ではないので、というか調べておけば良かったが、最後の項目だけがたっぷり時間が取ってある以外は、他は20分〜40分位で綺麗に区切りがついている筈である。もっと細かく分ける事は可能だし恐らくこれだけ有名な作品なら実際に作られた表が書籍になっていてもおかしくはないだろう。
だがこんなにはっきりと区切りの分かる映画も珍しいが、それぐらい分かり易い、逆に言えばしっかりした作りがなければ長時間の面白い映画は作れないだろう。

 そして区切りを更に、次々と場面を切り替える事で見飽きさせない。
 数分の場面の為に惜しみなく費やされる労力と人員や、話を彩る音楽の数々等、細かく挙げればきりがないが、これだけの人数がかかわっているにもかかわらず、最低限把握しておけばいいのは最初の三十分位で出てくるベン・ハーとその家族ミリアムとティルザ、友人のメッサーラ、ベン・ハーの家の奴隷だったエステル、そしてイエス・キリストだけである事が、見ている人間を混乱させない。
 とにかく骨格はシンプルに、肉付けは豪華に、を基本にして作られている。調べたらもっと色々仕掛けはあるだろうけれど、とりあえずはこの辺りで止めておこう。

 さて裏設定であるメッサーラ君の苦難だが、期待通りで大変満足した(メッサーラ君ごめん)。最初から惚れているという事を把握して観ていたので、却って「ベン・ハーへの憎しみのままに生きたが為に己の身を滅ぼしたメッサーラ」と「メッサーラを憎んでいたが、神に触れる事でそこから抜け出してやがて自分をも救ったベン・ハー」の対比が浮き彫りになる。つまりこの設定は面白半分なものではなく、この映画のテーマをはっきりさせる為に、むしろ必要なものだったと分かった。
 ベン・ハーにあってメッサーラになかったものは神というよりはベン・ハーにとってのエステルのような、理解者と導き手だったのではと思う。ローマにだって神はあったのだし。
 ただ、メッサーラにとってのエステルとなれる存在とは、そもそも彼が歪んでしまった原因であるベン・ハーに他ならないので、やはり「失恋に効くのは男(女)薬」という法則は古でも有功だったらしい。

 大事なのは母と妹に起こった奇跡、そして三日後にキリストが起こす最も重要な奇跡を目にする前に、 ベン・ハーが復讐にとらわれていた己の意を改めた事である。キリスト教ではイエスの死自体も重要なものであったとされているという事がよく分かる。
 上で神の絶対性を却下したが、映画で最後の一時間近くを費やして描かれるイエスの死と奇跡は圧倒的であり、絶望に陥った彼が思い直すに至るのも納得出来るようなものになっている。
 何故ならベン・ハーは紀元前後の人間にして1950年代の人間であり、彼が目にしたものとは、一人のラビの処刑を二千年近くかけてここまで神格化させてきた歴史そのものだからだ。
 ちっぽけなベン・ハーに勝てる筈がなく、折れるしかない。もっともこの場合は彼の幸福に繋がる選択だったのでめでたいが、同時にそれがこの物語が終わった後、彼が身を投じただろうユダヤの民の長い戦いにたやすく呑み込まれた運命をも暗示していないと良いと思う。

by せつこ at 21:14 │comment (0)TrackBack (0)
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2010-04-26 (月)
「タマンナ」          カルチャー /映画

「タマンナ」(1997年、インド映画)

 少し前にテレビ放映されたものをようやく観ました。
 あらすじはインドの裕福な家庭で生まれた少女が、女は跡継ぎにはならないからと父親や姑の手により遺棄された所を女装系同性愛者の男性に拾われます。成長した彼女はやがて父親が実父ではない事を知り、前後に父親が偶然知った自分の生まれた家へ向かうのですが、というもの。
 ご他聞に漏れず私も「ムトゥ 踊るマハラジャ」は見た人間なのでインド映画が増えるといいなと思っていたのですが、なかなか見ることが出来ず悲しいです。


 映画の感想に入りましょう。何と言ってもインド映画なので、歌がしょっちゅう流れます。音楽の旋律が独特で聞いているだけで「インド映画を見ているんだなあ」という気分に浸れます。楽しい場面もありますが基本は真面目な映画だからか、踊りはありませんでした。
 今市子さんの「萌えの死角」(日本文芸社)でちらりと知った程度なのですが、インドでは同性愛者はとても差別されているそうです。調べたら同性愛者の性行為を罰する刑が個人の権利を侵害していると判決が下ったのは去年の2009年(!)との事で、父親といつも一緒にいる男性が親友なのかそれとも恋人なのか、曖昧に思えたのはその為かと納得しました。そちらには子供がいるのですがお子さんをお持ちの同性愛者の方は珍しくない訳ですし。
 焼身自殺図った娘とそれを助けた父親の両方が無傷だったりと時折大雑把と言い切れてしまえるぐらい、話の作りがいい加減になったりもしますが、重なると味になっていくのも「ああ、インド映画だ…」と思えてしまいます。タマンナの実父の描き方がそうで、もう日本では喜劇的な時代劇でも有り得ない位の、絵に描いたような悪人となっているので、終盤での破滅を期待するのに何の良心の呵責も湧かなかったのは本当に久し振りでした。もしかしたら初めてかもしれません。
 この父親をどうやって追い詰めるんだ、と思っていたらさらっとDNA鑑定が使われた事で、そういえばこれは現代の話だった、と大時代的な悪役につい頭の中の時代設定認識が狂っていたのを発見しました。
 しかもこの話のクライマックスはタマンナが自分を撃ち殺そうとする実父に追われる、というもので、こればかりはそういう作りの物語でないと中々味わえない悪夢だったと思います。
 お父さんの仲間が最後に実父をぽかぽか殴るのもどこかユーモラスで楽しかったです。そしてやはり悪人は最後に殴られながら壁やガラス板を突き破らなければならないのでね。
 ところでタマンナが「お前は怒れる女神カーリーの化身なのだよ」というような事を言われた場面がありましたが、最後にお父さんが実父を殴りまくる姿を見て、「むしろカーリーの化身はお父さんの方では……?」と思ったりもしました。
 着地点も予想通りで、最後まで安心して観られました
 そして何気なく、殺し屋さんの病気の娘さんと実父の愛人の人のその後が気になります。前者は身元が分かって「娘を助けてくれた人の忘れ形見だから」とお母さん達が助けてくれたと思いたいですが、後者は助ける義理が無い上にあの実父なら絶対に待遇が悪いでしょうからね。心配です。

 

by せつこ at 12:16 │comment (0)TrackBack (0)
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2009-06-12 (金)
「魂萌え!」          カルチャー /映画

魂萌え! (2007年、日本)


 阪本順治監督作品は結構観ている。「顔」「ビリケン」「ぼくんち」そして今回の「魂萌え!」だ。「顔」を観た時の映画館の空気は今でもはっきりと思い出せる。
 一方、「魂萌え!」だ。テレビドラマで観たのがきっかけでこの作品を知り、原作を読み、そして今回、ようやく劇場版を観る事が出来た。
 何が私をここまで惹きつけたのかを考えてみる。多分、同年代の悩みを描いた話は生々し過ぎるので、連れ合いを亡くすという全く縁のなさそうな(……)話を好むのだろう。

 原作を知らなかった頃にドラマ版を最初に観たせいか、劇場版の説明不足感は否めないし、ドラマ版のキャストの方が優れているように感じてしまう。
 いや、冷静に観ていけばキャストはどれも悪くない。ただ、妻の敏子役が風吹ジュンなのに情婦の昭子役に三田佳子を持って来るのはどうかと思った。こればかりは高畑敦子に高橋恵子をぶつけたドラマ版の方が正解だ。
 説明不足感は時間の関係上、どうしようもないので仕方が無いとはいえ、蕎麦屋で、昭子が自分のこれまでの隆之との日々を独白する場面と、隆之の最後の日の話をし合う敏子との場面は欲しかった。あれがないと、二人がお互いを理解したような、理解していないような結末になったとは言い難いように思う。後、劇場版じゃいくら最後の場面で悲哀を好演してくれていてもあれじゃ塚本がただの色ボケである(いや色ボケだけど)。
 忘れ難いのは何とか這うようにして生きている野田だ。いつか敏子との再会があるといいと思う。

 これから敏子がどうやって生きていくか、という事に対して、はっきりと映像技師への道を示していったのは好感が持てた。しかしまったく説明が無いのに「ひまわり」のラストシーンだと分かるのは「ひまわり」が凄いのか。
 あらすじしか知らないけれど、多分テレビを投げ飛ばす位に腹を立てるだろうから「ひまわり」は今の所観る気にならない。夫婦ものならなんでもいい、という訳でもないようだ。

by せつこ at 13:36 │comment (0)TrackBack (0)
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2008-02-24 (日)
「エリザベス:ゴールデン・エイジ」          カルチャー /映画

「エリザベス:ゴールデン・エイジ」(2007年、イギリス)



 昔、私が「エリザベス」を観た時の事だ。
 話の筋自体はそう目立ったものではないように思う。一人の王女が運命の流転の末に王となり、数々の策謀や裏切りを経て、この世で唯一無二の存在となるまでの物語だ。
 目を引いたのは、細かい技だ。登場人物一人ひとりの描き方や衣装に建物に映像、光の加減、一つ一つが私の心を満たした。
 中でも主人公、エリザベス女王を演じた、ケイト・ブランシェットの演技には圧倒されるばかりだった。場面を重ねるごとにエリザベスの心境の変化を丁寧に綴っており、最後のエリザベスのある決断を取る場面は精神的なものの頂点さえ感じさせた。この映画の最大の魅力が、彼女の存在にあることは私にとって疑いようの無い事実だ。
 しかし、私の心をそれでも惹きつけたのは、彼女ではなかった。
 ウォルシンガムである。
 他の家臣、心の支えとなる人たちが去っていく中、遂に彼女がその手に残したのが、拷問や暗殺をいとわぬ、情とはどこか違う所にいる存在であった、という図は、私を違う世界へ旅立たせてしまった。ええ、「銀河英雄伝説」でも、好きなキャラクターはメルカッツの次にオーベルシュタインだ。
 実を言うと「日本でこの役をやるなら岸部一徳だろうか」というどこかの方のご感想が、私を岸部一徳ファンにさせた遠因だったりする。単純だなおい。「相棒」の小野田官房長、大好きです。是非最後は野望の階段を登りきった後で、右京さんと薫君の手で盛大に破滅してください(これを望んでない官房長ファンはいない筈だ!)。
 話を戻そう。そんな訳で当然、この役を演じたジェフリー・ラッシュの他の役も大変気になり、次に手に取った「恋に落ちたシェイクスピア」のヘンズローにひっくり返ったりしつつ、次々と作品を目にしたのだが、やはり孵ったひよこさながら、ウォルシンガムはジェフリー・ラッシュの出演作の中でも、私の中で特別な存在の座を占めたままであった。
 そんなウォルシンガムが帰って来るという。もちろんエリザベス女王のその後の映画でだ。
 まだ出来てからそう年月も経っていない、大阪のシネコンへ足を運びながら、しかし私には、また会えるという喜びの裏に、多大な不安を抱えてもいた。
 前作から十年ほどの時間を経て作られた話である。エリザベスは変わらずに女王であるだろう。その確信は何故かあったが、映画自体と、ウォルシンガムについては恐怖さえ覚えた。

 ジェフリー・ラッシュのあの演技をもってしても、ウォルシンガムから漂っていた色気がなくなっていたらどうしよう。あるいは、何かの手違いで、ウォルシンガムがつまらない人間に描かれていたりしたらどうしよう。あるいは、エリザベスがどうしようもない人間になっていたらどうしよう。あるいは、あるいは。



 目を引くのは、エリザベスの映し方とウォルシンガムとの距離感である。壮大な建物の中にそっとそのその存在を置いているかのようであったエリザベスは、今回、数々の場面でくつろいでいるように思える。むしろ、建物や都市や国の土に、自分の存在を馴染ませたかのようだ。生き生きとしている。
 驚いたのは、ある場面、怒りのあまり、ウォルシンガムの頭を小突いた所だ。前作を観ていてウォルシンガムの怖さを知っている私は、「それをやっちゃっていいのか」とちょっとだけ思ったが、今のエリザベスの存在感と力、ウォルシンガムとの関係なら完全に不問だと観ていて分かるのが凄い。加えて、更に増すエリザベスの生命力の裏で、ウォルシンガムのそれのかげりをも象徴しているかのようで興味深い。
 彼の目線が前回は女王の影から、あるいは上から、彼女を覆うようにかけられているように思えたが、前作の最後、マリア像の前でそれすら取り払った事で、エリザベスへの視点は、今は見た目どおり、側に、あるいは横にある。お互い、「いいのか、そこまで言って」と思うぐらい、かなりつっこんだ発言をしている。その理由は最期になってようやく気付いた。
 実は見終わった後でノベライズ版を読んだのだが、各登場人物の描写は映画とは少しずつ異なる。特にウォルシンガムはもっと冷徹な人間として描かれている。映画の彼は違う。家族に健康を心配されたり、自分を裏切った弟にも心を痛めて接しているのが見て取れる。どこか超然としていた前作やノベライズ版と違い、人間になっているのだ。それでいて前作同様、拷問を行い、不信の渦のような諜報活動を行い、しかも尋問や拷問の絶対性に頼り切った人間が必ずそうなる、致命的な失敗をするのだ。とうとう病床についたとして、誰が責められるだろう。あくまで己の任務を第一とした結末を迎えたノベライズ版も好きだが、やはり映画版の方が魅力では勝るように思えるのは、私が、己が弱い事を知っている人間が好きだからだろう。
 病床の彼の元へ赴いたエリザベスの言動は、あくまでやさしい。ベスとは違う意味で、彼はエリザベスの友だったのだ。前作の最後、マリア像の前のエリザベスの拒絶があった為、二作品を通して、今回の最後の口づけでしか二人は触れ合わない。そういう男が側にいた事はエリザベスにとって幸福な事だったのだろうとは思ったが、もしも前作の最後、エリザベスが拒まなかったら今回はどうなったのだろう、と考えても興味深い。


 一方で、今回の「触れ合った男」、ローリーはいい男だった。エリザベスにしたことは確かに裏切りだけど、場面を追いかけると、その一つずつの行動は男として正しいのがよく分かる。
 ベスと情をかわした場面でもしも慰めていなかったら酷い男となるだろうし、その後、ちゃんと身を引こうとするベスを止めて責任を取ったのも、一方でエリザベスの激情を受けとめて海上へ旅立とうとする心を抑えて宮廷にとどまり、彼女の願いを受け入れたのも、とても正しい、でもまとめるとやっぱり最低だ、となる不思議な例である。
 ともあれ、彼が一人の男として筋を通しきったのが分かったからこそ、エリザベスも最後は許し、二人の仲を祝福できたんだろう。エリザベスを巡る男達では、一番幸せな人だったのではないだろうか。調べたら最期は酷いけど。ベスも凄いな。



 前回も各人の衣装がとても目を引いた。ウォルシンガムのあの紫調の、裾のさばき方も重厚な服が好きなのだが、今回もエリザベスの色とりどりの服をはじめ、とても衣装が目を楽しませてくれた。
 芸も細かい。ベスがローリーと踊る場面の服はエリザベスと同じ色合いだし、エリザベスが着た甲冑や、最後の服もよい。
 特に凄みがあるのはメアリ・スチュアートの処刑場面だろう。その前、エリザベスを始め、侍女などの服が多少地味な色合いだな、と思っていた所へ、あの黒から赤への変化である。女王としての意地を赤で表現するというのはありきたりではないか、とちらっと思ったのだが、それも理由があって、私はこの映画で、赤はキリスト教で殉教の色だというのを知りました(駄目人間)。意地の悪いことを考えたが、それでも衣装が何よりも処刑に向かうメアリの意思を雄弁に語っていた。アカデミー賞受賞、おめでとうございます。



 そのメアリ・スチュアートとの対決はもっと描いて欲しかった。エリザベスがあれほどの政権を築けたのが、生まれとしては正統である、メアリの存在があったのが理由の一つとして挙げられると思うからだ。我が身を斬られるように処刑の刻を迎えるエリザベスの痛ましい様子は、本当にもう一人の自分のように思えたからに違いない。
 前作のエリザベスの姉のメアリ(以下、メアリ・スチュアートと紛らわしいので姉メアリと書きます)も出番は少なく、典型的な腹違いの妹への憎しみで苦しむ女王の描かれ方をされていたが(いや姉メアリがエリザベスを憎んでいたのはほかにも色々な要因はあるんだが、それは置いておいて)、最後に一つ、姉メアリはその描写に深みを増している。愛した夫を含め、周囲に利用され続けた彼女が、一番憎んでいた妹の処刑を拒む事でしか、己を通せなかったという哀しい場面だ。
(だから私は姉メアリを、ありきたりの妹を憎む女として描いただけのコミック版が許せない)
 今回のメアリ・スチュアートにはそんな場面は無かった。彼女を主役にして話が次々と作られているのだから、その辺を突っ込むと大変な事になるのは承知で、もっと描いてあげて欲しかったと思う。とりあえず前作でウォルシンガムに殺されたメアリー・ド・ギースが彼女のお母さんだという説明は欲しかったぞ。メアリがいっぱいの映画だな。



 エリザベスには様々な影がある。メアリ・スチュアートという影、ベスという影、ウォルシンガムという影。
 前作は、エリザベスがあの場面で「聖女となった」話だった。今回は、「聖女として生きる」話だったのだ。その裏にある影は全て去ってしまった。赤子を抱える彼女の姿は明らかに聖女を意識していて、あまりに神々しいほどだったが、もはや影が無いというのは一抹の不安も覚える。
 となると、もしも続編があるとしたら……?
 ウォルシンガムの存在がもう無いのは残念だが、史実に基づくと、彼の名前が出てこないことは無いだろう。何せ、○○○○○が彼の○と○○するからね。という事はウォルシンガムの家の場面は続編の複線でもあるのか。
 でも今回、セシルとロバートも出てこなかったからな。ウォルシンガムもちょっと怪しいかもしれない。ロバートはノベライズ版ではおいしい所をかっさらっていたが。今は亡き丹波さんか、君は。
 ローリーはいるだろうけれど、事実上、エリザベスはたった一人で最後の試練に向かわなければならない。どうなるかが大変楽しみである。



 余談で、もうちょっとウォルシンガムのことを書くと、ノベライズ版には映画に無いエリザベスとの場面がいくつかある。前作のものでも暗殺未遂で失神しかけたエリザベスを、抱えてくれた人をロバートと誤解するが実はウォルシンガムだった、という、結末の複線でもある素敵な場面があったが、今回も「私の命はあなたのものよ」と告げる場面がある。情愛とは別のところで存在する信頼というのはあるのだ。

 ウォルシンガムはウォルシンガムだった。そしてエリザベスの側にずっといた。

 それを描いてくれただけで、私としてはこの映画に大変満足である。



 と、いう訳で、「エリザベス三部作はウォルシンガム×エリザベスなのですよ(!)」と世界の隅っこでささやかに主張してみた感想であった。
 当然ながら史実は完全に無視しよう。

by せつこ at 15:29 │comment (2)TrackBack (0)
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