2008-02-24 (日)
「エリザベス:ゴールデン・エイジ」 カルチャー /映画
「エリザベス:ゴールデン・エイジ」(2007年、イギリス)
昔、私が「エリザベス」を観た時の事だ。
話の筋自体はそう目立ったものではないように思う。一人の王女が運命の流転の末に王となり、数々の策謀や裏切りを経て、この世で唯一無二の存在となるまでの物語だ。
目を引いたのは、細かい技だ。登場人物一人ひとりの描き方や衣装に建物に映像、光の加減、一つ一つが私の心を満たした。
中でも主人公、エリザベス女王を演じた、ケイト・ブランシェットの演技には圧倒されるばかりだった。場面を重ねるごとにエリザベスの心境の変化を丁寧に綴っており、最後のエリザベスのある決断を取る場面は精神的なものの頂点さえ感じさせた。この映画の最大の魅力が、彼女の存在にあることは私にとって疑いようの無い事実だ。
しかし、私の心をそれでも惹きつけたのは、彼女ではなかった。
ウォルシンガムである。
他の家臣、心の支えとなる人たちが去っていく中、遂に彼女がその手に残したのが、拷問や暗殺をいとわぬ、情とはどこか違う所にいる存在であった、という図は、私を違う世界へ旅立たせてしまった。ええ、「銀河英雄伝説」でも、好きなキャラクターはメルカッツの次にオーベルシュタインだ。
実を言うと「日本でこの役をやるなら岸部一徳だろうか」というどこかの方のご感想が、私を岸部一徳ファンにさせた遠因だったりする。単純だなおい。「相棒」の小野田官房長、大好きです。是非最後は野望の階段を登りきった後で、右京さんと薫君の手で盛大に破滅してください(これを望んでない官房長ファンはいない筈だ!)。
話を戻そう。そんな訳で当然、この役を演じたジェフリー・ラッシュの他の役も大変気になり、次に手に取った「恋に落ちたシェイクスピア」のヘンズローにひっくり返ったりしつつ、次々と作品を目にしたのだが、やはり孵ったひよこさながら、ウォルシンガムはジェフリー・ラッシュの出演作の中でも、私の中で特別な存在の座を占めたままであった。
そんなウォルシンガムが帰って来るという。もちろんエリザベス女王のその後の映画でだ。
まだ出来てからそう年月も経っていない、大阪のシネコンへ足を運びながら、しかし私には、また会えるという喜びの裏に、多大な不安を抱えてもいた。
前作から十年ほどの時間を経て作られた話である。エリザベスは変わらずに女王であるだろう。その確信は何故かあったが、映画自体と、ウォルシンガムについては恐怖さえ覚えた。
ジェフリー・ラッシュのあの演技をもってしても、ウォルシンガムから漂っていた色気がなくなっていたらどうしよう。あるいは、何かの手違いで、ウォルシンガムがつまらない人間に描かれていたりしたらどうしよう。あるいは、エリザベスがどうしようもない人間になっていたらどうしよう。あるいは、あるいは。
目を引くのは、エリザベスの映し方とウォルシンガムとの距離感である。壮大な建物の中にそっとそのその存在を置いているかのようであったエリザベスは、今回、数々の場面でくつろいでいるように思える。むしろ、建物や都市や国の土に、自分の存在を馴染ませたかのようだ。生き生きとしている。
驚いたのは、ある場面、怒りのあまり、ウォルシンガムの頭を小突いた所だ。前作を観ていてウォルシンガムの怖さを知っている私は、「それをやっちゃっていいのか」とちょっとだけ思ったが、今のエリザベスの存在感と力、ウォルシンガムとの関係なら完全に不問だと観ていて分かるのが凄い。加えて、更に増すエリザベスの生命力の裏で、ウォルシンガムのそれのかげりをも象徴しているかのようで興味深い。
彼の目線が前回は女王の影から、あるいは上から、彼女を覆うようにかけられているように思えたが、前作の最後、マリア像の前でそれすら取り払った事で、エリザベスへの視点は、今は見た目どおり、側に、あるいは横にある。お互い、「いいのか、そこまで言って」と思うぐらい、かなりつっこんだ発言をしている。その理由は最期になってようやく気付いた。
実は見終わった後でノベライズ版を読んだのだが、各登場人物の描写は映画とは少しずつ異なる。特にウォルシンガムはもっと冷徹な人間として描かれている。映画の彼は違う。家族に健康を心配されたり、自分を裏切った弟にも心を痛めて接しているのが見て取れる。どこか超然としていた前作やノベライズ版と違い、人間になっているのだ。それでいて前作同様、拷問を行い、不信の渦のような諜報活動を行い、しかも尋問や拷問の絶対性に頼り切った人間が必ずそうなる、致命的な失敗をするのだ。とうとう病床についたとして、誰が責められるだろう。あくまで己の任務を第一とした結末を迎えたノベライズ版も好きだが、やはり映画版の方が魅力では勝るように思えるのは、私が、己が弱い事を知っている人間が好きだからだろう。
病床の彼の元へ赴いたエリザベスの言動は、あくまでやさしい。ベスとは違う意味で、彼はエリザベスの友だったのだ。前作の最後、マリア像の前のエリザベスの拒絶があった為、二作品を通して、今回の最後の口づけでしか二人は触れ合わない。そういう男が側にいた事はエリザベスにとって幸福な事だったのだろうとは思ったが、もしも前作の最後、エリザベスが拒まなかったら今回はどうなったのだろう、と考えても興味深い。
一方で、今回の「触れ合った男」、ローリーはいい男だった。エリザベスにしたことは確かに裏切りだけど、場面を追いかけると、その一つずつの行動は男として正しいのがよく分かる。
ベスと情をかわした場面でもしも慰めていなかったら酷い男となるだろうし、その後、ちゃんと身を引こうとするベスを止めて責任を取ったのも、一方でエリザベスの激情を受けとめて海上へ旅立とうとする心を抑えて宮廷にとどまり、彼女の願いを受け入れたのも、とても正しい、でもまとめるとやっぱり最低だ、となる不思議な例である。
ともあれ、彼が一人の男として筋を通しきったのが分かったからこそ、エリザベスも最後は許し、二人の仲を祝福できたんだろう。エリザベスを巡る男達では、一番幸せな人だったのではないだろうか。調べたら最期は酷いけど。ベスも凄いな。
前回も各人の衣装がとても目を引いた。ウォルシンガムのあの紫調の、裾のさばき方も重厚な服が好きなのだが、今回もエリザベスの色とりどりの服をはじめ、とても衣装が目を楽しませてくれた。
芸も細かい。ベスがローリーと踊る場面の服はエリザベスと同じ色合いだし、エリザベスが着た甲冑や、最後の服もよい。
特に凄みがあるのはメアリ・スチュアートの処刑場面だろう。その前、エリザベスを始め、侍女などの服が多少地味な色合いだな、と思っていた所へ、あの黒から赤への変化である。女王としての意地を赤で表現するというのはありきたりではないか、とちらっと思ったのだが、それも理由があって、私はこの映画で、赤はキリスト教で殉教の色だというのを知りました(駄目人間)。意地の悪いことを考えたが、それでも衣装が何よりも処刑に向かうメアリの意思を雄弁に語っていた。アカデミー賞受賞、おめでとうございます。
そのメアリ・スチュアートとの対決はもっと描いて欲しかった。エリザベスがあれほどの政権を築けたのが、生まれとしては正統である、メアリの存在があったのが理由の一つとして挙げられると思うからだ。我が身を斬られるように処刑の刻を迎えるエリザベスの痛ましい様子は、本当にもう一人の自分のように思えたからに違いない。
前作のエリザベスの姉のメアリ(以下、メアリ・スチュアートと紛らわしいので姉メアリと書きます)も出番は少なく、典型的な腹違いの妹への憎しみで苦しむ女王の描かれ方をされていたが(いや姉メアリがエリザベスを憎んでいたのはほかにも色々な要因はあるんだが、それは置いておいて)、最後に一つ、姉メアリはその描写に深みを増している。愛した夫を含め、周囲に利用され続けた彼女が、一番憎んでいた妹の処刑を拒む事でしか、己を通せなかったという哀しい場面だ。
(だから私は姉メアリを、ありきたりの妹を憎む女として描いただけのコミック版が許せない)
今回のメアリ・スチュアートにはそんな場面は無かった。彼女を主役にして話が次々と作られているのだから、その辺を突っ込むと大変な事になるのは承知で、もっと描いてあげて欲しかったと思う。とりあえず前作でウォルシンガムに殺されたメアリー・ド・ギースが彼女のお母さんだという説明は欲しかったぞ。メアリがいっぱいの映画だな。
エリザベスには様々な影がある。メアリ・スチュアートという影、ベスという影、ウォルシンガムという影。
前作は、エリザベスがあの場面で「聖女となった」話だった。今回は、「聖女として生きる」話だったのだ。その裏にある影は全て去ってしまった。赤子を抱える彼女の姿は明らかに聖女を意識していて、あまりに神々しいほどだったが、もはや影が無いというのは一抹の不安も覚える。
となると、もしも続編があるとしたら……?
ウォルシンガムの存在がもう無いのは残念だが、史実に基づくと、彼の名前が出てこないことは無いだろう。何せ、○○○○○が彼の○と○○するからね。という事はウォルシンガムの家の場面は続編の複線でもあるのか。
でも今回、セシルとロバートも出てこなかったからな。ウォルシンガムもちょっと怪しいかもしれない。ロバートはノベライズ版ではおいしい所をかっさらっていたが。今は亡き丹波さんか、君は。
ローリーはいるだろうけれど、事実上、エリザベスはたった一人で最後の試練に向かわなければならない。どうなるかが大変楽しみである。
余談で、もうちょっとウォルシンガムのことを書くと、ノベライズ版には映画に無いエリザベスとの場面がいくつかある。前作のものでも暗殺未遂で失神しかけたエリザベスを、抱えてくれた人をロバートと誤解するが実はウォルシンガムだった、という、結末の複線でもある素敵な場面があったが、今回も「私の命はあなたのものよ」と告げる場面がある。情愛とは別のところで存在する信頼というのはあるのだ。
ウォルシンガムはウォルシンガムだった。そしてエリザベスの側にずっといた。
それを描いてくれただけで、私としてはこの映画に大変満足である。
と、いう訳で、「エリザベス三部作はウォルシンガム×エリザベスなのですよ(!)」と世界の隅っこでささやかに主張してみた感想であった。
当然ながら史実は完全に無視しよう。
by せつこ at 15:29 │comment (0) │TrackBack (1) │
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