2009-07-02 (木)

朝鮮戦争 全3巻          カルチャー /本・雑誌


児島 襄 著


1950年6月25日 38度軍事境界線の丘陵地帯は静かであった。

異常を告げる報告はなく、陸軍本部をつつむ静寂はますます色濃さを増していた。

そのころ、二組の偵察隊のうち、崔覚模中尉一行六人は全谷の側方に到着したが、一行は仰天した。

周囲の丘陵地帯に築城の騒音がひびき、連川の方角から移動して来るらしい戦車のエンジン音が、雨と闇をゆるがせている。

音だけで判断しても、とても中隊や大隊単位ではなく、大部隊の集結はまちがいない。


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崔中尉は、携帯電話の箱から送話器をむしりとった。だが、いくらハンドルをまわして呼びかけても反応はない。青山派遣隊から電話線をひいて歩いてきたのだが、途中で切れたらしい。 「き、切られたんじゃないですか」 部下の一人の声に、崔中尉の心臓は緊張した。もしそうであれば、敵は中尉一行を発見しているかもしれない。

グチャ・・・・と、崔中尉がなにかいう前に、逃げだす部下の足がふむ泥音がひびき、中尉もあわてて後を追った。・・・午前三時。


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いまや北朝鮮軍七個師団は、西から東に第六、第一、第四、第三、第二、第七、第五師団の順に展開を終えている。 兵力十一万一千人、火砲千六百門、戦車約百三十台、自走砲百二十八台・・・・。

圧倒的な優勢のはずであり、しかも、韓国側にはこちらの動きを探知されていないはずである。 「奇襲と勝利は、天日のように明らかだ」 軍団長・金光侠少将は、そう確信していたが、李学九大佐も同感である。

ーきょうの晩メシは無理でも、あさっての晩メシはソウルで食える。 李学九大佐は、独笑した。自信がある。 雨は降りつづいている。 李学九大佐は、送話器に、ひと声吹きこんだ。

ポップン(暴風)」 六月二十五日午前四時・・・・である。


  朝鮮同一民族が争う悲劇が克明に著されたノンフィクション!


          今だからこそ朝鮮戦争を振り返ろう


中高大生推薦

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2009-06-22 (月)

気張る男          カルチャー /本・雑誌

城山三郎 著


六人の女子衆が走り出した。
二十代から三十代。一塩鰈を詰めた籠を天秤棒に吊るして走る。
「よっさ よっさ ほいさ ほいさ はいさ」胸もとがはだけてきて、乳房をゆらす女もあれば、大きな乳房を紐で締め上げている女もある。

少年松本重太郎の目にはまぶし過ぎるのだが、前後左右を女子衆に取り巻かれて走っていては、他に目のやり場もない。


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この日、重太郎が後にした丹後国間人村は、三方を山に囲まれ、傾いたまま海に落ちこむ地勢。まるで海の中に置き忘れられた形の村であった。 十歳の重太郎は村を、家を飛び出して京に向かう女子衆と一緒に京を目指している。

京に着いた重太郎は五条通の菱屋勘七という呉服商の丁稚として奉公することができた。安政元年(1854年)のことである。


この同じ年、丹後より日本海沿いにさかのぼった越中から家出し、奉公しようと江戸に向かった若者が居た。名は、安田善次郎

後に「日本の金融王」と称されるほどになり、重太郎とは微妙な関係になり、ついには重太郎の事業家としての生死を左右する立場になる。


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東京では渋沢栄一が国立第一銀行を設立し、以後、設立の順番に従って、数字をそれぞれの銀行名としてきたが、その数字が二桁に、いや三桁に迫ろうとしていた。第三国立銀行を安田善次郎も創立していた。

重太郎も庶民のための銀行を作りたいと奔走して、ついに第百三十国立銀行を創立し、人物本位で無担保という銀行経営に乗り出す。

鉄道、紡績、ビール会社など、次々に創業し”西の渋沢栄一”といわれた関西実業界の帝王として名をはせた松本重太郎の生涯を描いた傑作。


    よっさ、よっさと走り続ける 気張る男 松本重太郎 


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2009-06-16 (火)

剣客商売 庖丁ごよみ 13 鰹          カルチャー /本・雑誌


池波正太郎 著  近藤文夫 料理


< 鰹の刺身 >


夏めいてきた或る日の宵であった。

膳の上には、六郷蜆の味噌吸物、鰹の刺身などが出ていて、

「この蜆汁。さすがは長次、粉山椒が程ようきいている。不二楼ゆずりじゃ」

などと小兵衛は、上きげんである。


                           「陽炎の男」中「嘘の皮」より


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久しぶりで宗哲と碁を囲んだのち、小兵衛は、

(今日はひとつ、宗哲先生を元長へ案内しよう) と、おもいついた。

そして、こころよい初夏の宵を「元長」の二階座敷に向い合い、長次が腕を揮った小口茄子に切胡麻の味噌吸物や、鰹の刺身などで、宗哲と酒を酌みかわしたわけだが、

(今日の宗哲先生は、どうかしていなさる)と、おもった。


                           「陽炎の男」中「兎と熊」より


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< 生鰹の味噌汁 >


「さ、おあがり。ともかくも、物を食べられぬようではどうにもならぬ」

「まことに、どうも、御厄介をかけまする」

この日の夕餉は、鰹を煮熟したもの・・・・つまり、即製の生鰹節を蒸しくずし、これを濃目の味噌汁に仕立てたものに、高菜の漬け物。それだけであった。

初夏の江戸の鰹ゆえ、まだ値は安くないが、それにしても質素な食膳である。        


                                      「黒白」より

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2009-06-11 (木)

深夜特急 6-3 南ヨーロッパ 2          カルチャー /本・雑誌

沢木耕太郎 著


第十七章 果ての岬 スペイン

      

フランスのマルセーユからスペインのマドリードまで一気に駆け抜けてきた。

バルセロナに一泊し、バレンシアにも一泊しただけで、マルセーユから三日目にはマドリードに到着してしまった。
夕方、バスで街に着き、安宿を見つけ、近所のレストランで簡単な食事をすると、もう眠くなってしまう。そして朝起きると、何をそんなに急いでいるのか自分でもわからないまま、市場でパンとハムとオレンジといった食料を買い込み、その日のうちに次ぎの街に向かうバスに乗り込んでいたのだ。


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私にはガウディやピカソより大事なものがあるような気がしたのだ。それが何かはわからないままに、とりあえずマドリードまで、と急行してしまった。

バレンシアからマドリードへ向かうバスは夕陽が道連れだった。バスはひたすら平原を突き進んでいくという印象があった。

ドカッと大きなスペインの夕陽が沈んでいく・・・・
マドリードのバス・ターミナルに着いたのは、午後八時をすぎていた。


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マドリードの日曜日には「蚤の市」があった。そこに行けば、大勢の人がいて、人との関わりがあり、何よりも独特の温もりが感じられた。
マドリードの「蚤の市」ラストロは、マヨ−ル広場からサン・イシドロ寺院を過ぎてしばらく行ったカスコーロ広場の附近で催される。

上は十字架から、下は便器までありとあらゆるものが露天に並べられている。この「蚤の市」でゴヤの真作がみつかったことがあったという。

私はこの「蚤の市」をただ漠然と流していたわけではなかった。ひとつだけ目的があった。できれば、ガルシア・ロルカの本を見つけたいと思っていたのだ。


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バスの外は暗かった。

ガラス窓に額を押しつけ、街灯がまだ明るさを失っていない朝のマドリードを眺めつづけたが、街は依然として眠ったままのようだった。私は午前六時発のバスでマドリードからリスボンに向かおうとしていた。

リスボンはユーラシアの果てだ。行き止まり、どんづまりといってもいい。


    沢木はユーラシアの果てポルトガルに入って行く!!

        

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2009-06-05 (金)

孟夏の太陽          カルチャー /本・雑誌

宮城谷昌光 著


中国春秋時代、晋国に重耳(ちょうじ)という苦節の末に名君とうたわれた王の時代から仕えた趙家の趙衰(ちょうし)から七代趙無恤(ちょうぶじゅつ)までの一族の当主、臣、人間としての生き方を鮮烈に描く長編です。


< 孟夏の太陽 >


まるで大樹から天光が発せられているようにみえた。

雪をつけた大樹のむこうから、日が昇ったのであった。ひとりの背の高い青年がその樹を仰ぎみている。

青年の名は、「(とん)」という。十九歳である。

かれにとって、その大樹は、父そのものである。仰げばますます高く、毅然と天を突いて、しかし孤独であった。

趙衰は重耳と共に狄の里を離れ十九年もの間諸国を放浪し、ついに晋の国の君主となったので、も晋に呼ばれ父と再会を果たすのです。

父の死後、趙盾は幾多の試練に遭いながらも晋の国の宰相まで上り詰めていくが、君主の後継問題で争乱の渦中に巻き込まれていく。


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< 月下の彦士 >


墓上にいる黒い鳥のかずが減った。 早朝から豪雨であったので、喪主である趙朔(ちょうさく)は出棺をみあわせていた。そのため父の趙盾の埋葬が、ずいぶん遅れた。

棺の上に土を盛りその上に植えた木を、趙朔は目に焼きつけるように凝視してから、坂道をくだってゆこうとした。そのとき、背後から、するどい哭声が天にむかって放たれた。

ー まだ、父のために哭いていてくれる人がいるのか。

ー みかけぬ人だが、父の友人であったのかもしれない。

それならば、わが家へきていただこう、とおもった趙朔が、歩きだそうとしたとき、かたわらにいた友人の程嬰(ていえい)に肘でとめられた。

程嬰は他の葬儀でもその男が哭いているところをみていたのである。

「心の卑しいやつさ」と程嬰はおもった。

男は程嬰の強いまなざしを虚空に漂わせながら「公孫杵臼(こうそんしょうきゅう)」と名告った。

のちに程嬰と公孫杵臼のたった二人で、みずからの身命をなげうって、趙家の命脈を断絶から救うことになろうとは、神をのぞけば、趙盾の霊しか知らなかったというべきであろう。

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      六代目の趙鞅(ちょうおう)を書いた< 老桃残記 >

      七代目の趙無恤(ちょうぶじゅつ)の< 隼の城 >


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2009-06-01 (月)

危機の宰相          カルチャー /本・雑誌

沢木耕太郎 著


貧乏人は麦を食え」と言い放った大臣がいた。
1950年(昭和25年)当時大蔵大臣であった池田勇人は参議院の予算委員会で「米価引き上げ」に関する質問に対し「貧乏人は麦を食え」と放言し「麦飯大臣」と非難されたことがあった。同年3月にも大蔵大臣と通産大臣を兼務していたときも中小企業の困窮に関する質問のなかでも「五人や十人の業者が倒産し、自殺しても、それはやむねぬでしょう」と答え新聞や雑誌で叩かれ池田の似顔絵は一貫して悪玉風に描かれるようになる。

しかし、それらの放言から9年が過ぎ無能の岸内閣の先が見え始めた頃から、池田の発言に「所得倍増」という言葉が出てくる。



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では、所得倍増計画はどの様にして世に出てきたのか、誰によって論理付けられ策定されたのだろうか、そして「百万円長者」という言葉も生まれる。そこには池田勇人を支えた田村敏雄今村治という二人のブレーンがいた。戦後最大のキャッチコピーといわれる「所得倍増計画」は池田、田村、今村の三人によって生まれ世界に屈指の経済大国への一歩を踏み出していく。


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1960年は激動の年であった。 総理大臣のは「日米安全保障条約」を衆参両議院で通過させなければならない。6月10日にはアイゼンハワーの訪日について打ち合わせをするために、秘書であるハガティーが羽田に降り立ったが、空港ビルは全学連反主流派の学生たちのデモ隊に占拠され、車でなくヘリコプターで脱出するという事態に見舞われる。 そして15日国会周辺のデモは10万人に膨れ上がり右翼、警察隊と衝突するなか女子学生樺美智子さんが亡くなってしまう。 ここにきて政治は最大の危機を迎え安保条約が国会を通過後、岸は総理の座を投げ出してしまう。


       「所得倍増」を巡り、政治と経済が激突する!


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2009-05-27 (水)

剣客商売 庖丁ごよみ 12 筍          カルチャー /本・雑誌

池波正太郎 著  近藤文夫 料理


京都の南郊、乙訓は、見事な竹薮で有名だ。その乙訓の長岡天神の池畔に「錦水亭」という、筍料理専門の料理屋があって、むかしは、食べさせるだけでなく、泊めてもくれた。

池のほとりに、大小の離れ屋がたちならび、ここに泊まると、別世界へ来たおもいがした。掘りたての筍を、吸い物、炊き合わせ、刺身、木の芽和え、でんがく、天麩羅、すべて筍料理だが、その旨いことは、私の友人の言葉ではないが、

「おはなしにならない」のであった。

掘りたての筍が、こんなにやわらかくて旨いものだと知ったのは、むかし、錦水亭へ泊まってからだ。いまも私は、筍が大好きである。


     画像


<  >


「墓詣りをすませましてから、目黒の不動様へ参詣をいたし、裏門前の伊勢虎へ立ち寄り、昼餉をいただきますのを、母がその、大変によろこんでくれますもんで、私もその母がよろこぶ顔見たさに墓詣りがかかせなくなりました」

「おお、うらやましいはなしじゃ。結構、結構」

しきりにうなずく小兵衛の両眼が、わずかに潤みかかっているではないか。


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目黒不動・裏門前の料理屋「伊勢虎」には、小兵衛も何度か客となっていたし、おはるも知っている。

竹林に包まれた奥座敷へ入り、春は目黒名物の筍、夏は鮎や鯉などで、ゆっくりと酒食をするのは、なかなかよいものだし、宗兵衛の母がよろこぶのも当然であろう。

    

                            「勝負」中「小判二十両」より


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2009-05-21 (木)

韓国済州島          カルチャー /本・雑誌

高野史男 著


本書は新書ですから学術書に近く読んで小説のように特別面白いものではありません。余ほど興味がある人しか読まれないと思います。

この様な新書は全部読もうとすると、折角購入したにも係わらず疲れて投げ出してしまいますので特に興味のある部分だけ読むという方法を採用すれば無駄になりませんね。

韓国本土から南の海上90キロに位置する済州島(韓国名:チェジュド)は現在では韓国の代表的観光地として、またTVドラマの「チャングム」の流刑地として我が国にも知られているが、ひと昔前はどの様な位置づけのしまであったのでしょうか。


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本書は先史時代からの地理、地質学、人種分類から多少の神話やシャーマニズムのような宗教風土や気候まであらゆることに触れ現代までの島の変遷等を著しています。済州島は火山の島で標高1950mの漢拏山がそびえ15世紀初めごろまでは耽羅という王国があったことで知られている。高麗時代に本土の王国に組み入れられ済州として歴史に現れてくる。

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では、我が国と済州島との係わりはどうであったでしょうか。済州人は大阪に多いといわれています。植民地時代火山岩に覆われた農耕に適さない土地で低生産にあえぎ自ずと近い国の日本に仕事を求めて出稼ぎに来ていた。それから大阪とを結ぶ定期航路が就航すると一気に渡来する人々が増え大阪に定住するようになって行く。またシナ事変から太平洋戦争に至る頃には労働力として強制的に連行されるということも忘れてはならない。

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私としては済州島といえば一番興味深いのは「四・三事件」で十五年程前に数冊の著書を読み漁った記憶が蘇ってきます。

「四・三事件」とは日本から解放され李承晩大統領時代圧制と独断的政治に島民が蜂起し一大革命事件として拡大していくのです。その結果一説によると男女、大人子供を問わず島民8万人が殺害されたのです。

在日作家の金石範はこの「四・三事件」をテーマにし超大作小説「火山島」全7巻を発表し日本国内だけでなく韓国に於いても大反響を巻き起こしました。

私もこの「火山島」全7巻を読み感動して、その後も「四・三事件」関連本を読んだのですが、済州島訪問だけは未だに果たされていません。

       

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2009-05-14 (木)

戦艦 武蔵          カルチャー /本・雑誌

吉村 昭 著


昭和十二年夏、九州の漁業界に異変が起こっていた。

初め、人々はその異変に気づかなかった。が、それは、すでに半年近くも前から始まっていたことで、ひそかに、しかしかなりの速さで九州一円の漁業界にひろがっていた。海苔の養殖の網に使う棕櫚(しゅろ)の繊維が消えてしまったのである。少しずつ分かってきたことは正体不明の男たちが棕櫚を買占め、すぐに梱包させてトラックに積み込ませ発送していた。全国的な棕櫚製品の欠乏となり中央官庁は係官を出張させて買い占められた棕櫚の繊維の経路を辿らせたが、発送先もわからず、むろん買い占めたグループの所在もつかめなかった。


三菱重工業長崎造船所では技師の馬場が渡辺鉄工場長から呼ばれ連れて行かれたところは首席監督官室であった。室内には海軍艦政本部から派遣されている首席監督官平田周二大佐を中心に、玉井喬介造船所長をはじめとして数人が緊張した表情をして集まっていた。


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新戦艦は予想をはるかに上回る数字ばかりであった。排水量も五万トン近いと仮定していたが、それを二万トンも越えている。殊に、主砲の直径四十六センチという数字は、新戦艦が、世界の戦艦の常識をやぶる重要な意義を持つものであることを証明していた。


日本帝国海軍の夢と野望を賭けた不沈艦武蔵の極秘建造から壮絶な終焉までを克明に綴った大作



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2009-05-08 (金)

男の論語 上下          カルチャー /本・雑誌

童門冬二 著


作者は時代小説の作家として著名である。

多くの歴史小説を世に送り出しているが本書は孔子の論語をビジネスマン向けに解釈し織田信長や徳川家康の時代のエピソードを挿入して彼らがどの様に対応して戦乱の世を乗り越えてきたかも紹介している。


子曰わく、巧言令色、鮮なし仁

先生がおっしゃった。「口ばかり達者で、他人にお世辞ばかり使うような人間に、本当に他人に愛情を注ぐ者は少ない」


江戸時代、三代将軍徳川家光の時代は、「武士のあり方」がかなり整備された時代だ。それまでの、「下克上の思想」は否定され、「主人が主人らしくなくても、部下は部下の責任を果たせ」という、使う者にとってはなはだ都合のいい論理が罷り通るようになっていた。言ってみれば、それまで戦国時代の余風を残していた武士たちはすべて、「聞きわけと、ものわかりのいい武士」に仕上げられたのである。こういう風潮に反発した武士に大久保彦左衛門がいる。


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かれはこの憤懣を「三河物語」という書物に書いた。その中で徳川家の武士を「いま江戸城で出世する者」と「いま江戸城で出世しない者」との二つに分類している。大久保彦左衛門が「いま出世する者」として上げた五つのタイプの人間の中に、「口がうまく、立ち回りがよくて上役にお世辞ばかりつかっている者」というタイプがある。逆に「出世しない者」の中には、この反対で「口下手で、世渡りが下手だが仕事一筋に生きている者」を上げている。大久保にすれば、自分が出世しない者として上げたタイプが本来は出世しなければならず、逆に出世する者として上げたタイプは出世してはいけないのだというアイロニーを主張したかったのだろう。しかし、これはなにも大久保彦左衛門の時代だけではない。今も同じだ。


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子の燕居、申申如たり、夭夭如たり

先生がくつろいでいらっしゃる時は、実にのびやかで、にこやかだ。 


孔子が、「諸侯を説いてまわるのはやめよう。郷里に戻って、後進の教育に専念しよう」と考え、自国に戻った頃の姿がありありと浮かんで来る。

これが、「第一線を退いた者の心掛け」である。

前のところでも触れたが、リタイア後も未練な気持ちを持って、何かあれこれと余計な口出しをしたり、あるいは干渉したりするのは絶対に避けるべきだ。孔子のように、ゆったりとにこやかにやわらいだ姿勢を保っていれば、いやでも後輩や、時には先輩たちが訪れて来る。そして「今、こんなことが起こりました。いい知恵を貸して下さい」と相談するだろう。


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