2011-12-22 (木)
坂の上の雲 八 (完結篇) カルチャー /本・雑誌
司馬遼太郎 著
「艦隊に出港を命じます」
と、東郷の了解をもとめた。
「うん」
東郷がうなずいた。東郷が民族の興亡を決すべき運命の戦いへスタートするにあたって、意思表示したことといえばただそれだけだった。かれはよく整った品のいい顔つきをしていたが、その表情からさきほどの喜色が消え、ふだんの東郷の顔つきにもどっていた。ちょうど陽のよくあたる場所で田の面をながめている老農夫の顔のように平凡でしずかで、すこしの劇的要素もなかった。日本人は情景が劇的であればあるほどその主観的要素を内部にしまいこんでしまうところがあり、東郷の光景は能に似ていた。
各艦はただ命令を待つだけになっていた。
作戦参謀である真之のなすべきことの九割まではこの事前においてすでに終了した。 あとは戦いにのぞんでその結果を神の前でテストをうけるのみであったが、しかしいまただちにやらねばならぬことが、すくなくともひとつはあった。
大本営に電報をうつことである。
連合艦隊司令長官である東郷が、決戦場にむかうにあたり、故国にむかってその決心をのべるための電報であり、その起草をしなければならない。
真之はのちのちまで日本海軍の神秘的な名参謀といわれた。そのため、この有名な電文の起草者がかれであるということになった。かれは秋山文学といわれたくらいに名文家であったことも、その誤解を生んだ。
この電文は真之が起草したものではなかった。
げんに、真之の目の前で、飯田久恒少佐や清河純一大尉らが、しきりに鉛筆をうごかしている。
やがて飯田少佐が真之のところへやってきて、草稿をさし出した。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聨合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」
とあった。
「よろしい」
真之はうなずいた。飯田はすぐ動いた。加藤参謀長のもとにもってゆくべく駆け出そうとした。そのとき真之は「待て」ととめた。
すでに鉛筆をにぎっていた。その草稿をとりもどすと、右の文章につづいて、
「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
と入れた。
「T字戦法」
を東郷はとった。
T字戦法の考案は、秋山真之にかかっている。
真之がかつて入院中、友人の小笠原長生の家蔵本である水軍書を借りて読み、そのうちの能島流水軍書からヒントを得たものだということは以前にふれた。ただこの戦法は実際の用兵においてはきわめて困難で、場合によっては味方の破滅をまねくおそれもあった。
げんに、敵とあまりにも接近しすぎているこの状況下にあっては、真之もこれを用いることに躊躇した。
日本海大海戦の火蓋がきって落とされた!!
「坂の上の雲」 NHK公式サイト
評価★★★★★










