ランドシップの窓からは、ちょうど沈んでゆく夕日が見えるところだった。
空は青と紫のもやに包まれ、その下には広大な土地が広がっている。
食事を終えた彼らはそれぞれ思い思いの場所で過ごしていた。
ルナンは見張り台の上から目検でも索敵をかけようと周囲を探り、ライナーは天井の高い部屋のカウチに寝転がり、仮眠をとっていた。
その時、突然船首が傾き、室内の家具が斜めにかしいだ。
ライナーはカウチの端に肘をぶつけて目を覚ますと、立ち上がりかけて反対側に床が傾き、バランスを崩しかける。
足元をふらつかせながらブリッジまでくると、パネルの計器を見ているルナンの背中に声をかけた。
「何が起こったんだ」
「コントロール計を読んだ限りでは、アスタルの手の者の仕業らしいですね。こんなデカいものが防御壁もロクに張らずに浮かんでるのですからある程度は予想はしてましたが、これは思った以上に数が多い…」
ライナーは顔色を変えた。
「防御壁もロクにって、結界網を敷いてないってことか」
ルナンはまあそういう言い方もありますね、と受ける。
「前にも言いましたように、シャーマンもソーサラーも右が持っていってますからね。…集結して右が単独で率いているとは考えられませんが、砲撃されたらこの艇はアウトということです」
「お前の絶対防御はどうなんだよ」
「あれには天井がありません。よって無傷でいられるのは側面だけ…といっても、私を中心に張りめぐらせてるものなので、常に壁が動くことも事実です」
「それじゃアテにするなと言われてるようなものじゃないか」
ルナンは前方を見るようにうながした。
「ですからこの艇が沈まぬよう、全ての攻撃を完全に防ぐ必要があります。ご覧なさい、肉眼でも見えるでしょう。相当数の小型艇が隊列を成しているのを。色は朱…艶やかなものだ。たかだか正体不明の艇の調査におおげさとも言える程のバトルを敷いている。国家間で紛争でも始めるつもりですかね?それともアスタルは兵隊の数が有り余ってるって言いたいのか」
ライナーは夕日を更に赤く染めるバトルを見ながら鼻白んだ。
「見せつけてるのさ。逆らうな、服従しろとね。この僕の前で許し難いよ」
「手伝ってくれますか」
格納庫へはその先の扉から行けます、と付け加える。
「いいだろう」
ライナーは前方を鋭く見据えたまま短く答えた。
甲板の手摺に片脚を引っ掛けると、肩から外套を外して宙へ放り、自身の身体もしなやかに舞い上がった。
( …レージエント( 浮遊 )を会得している…!フローターいらずってか、全く… )
ルナンは心の中で感心しながら、雲の隙間に自分の身体を滑り込ませた。
程なく、凄まじい悲鳴が黒山の間から上がる。
「隊列を崩すな!確かに人型が見えたんだろうな」
アスタルのバナーの一つをまとめる隊長が大声で叫んだ。
「ハッ!伝令が前のバナーから回ってきたので間違いないです!フローターなどではありません」
隊長が眉間に皺を寄せながら頷いた。
「ということは人型はレージエントの心得があるということだな。小型艇に乗っている我らの方が圧倒的に有利だ。人型は必ず生け捕るんだ!殺すなよ」
「ハッ」
「後続にも伝令を伝えておけよ。間合いを詰め、一気に周囲を固めて補足だ。行くぞ!」
隊長の掛け声で周囲のバナーが一斉に隊列を組み替えた。
その彼らのターゲットは左右に別れるように展開していた。
ライナーは朱色の小型艇を一つ奪っており、片脚をスロットルにかけて速度を上げていく。背中からライアー・オブ・ビルディングという、音の出ない竪琴を引き抜くと弦に指をからませる。空気を切り裂く音にかき消される程の小さな声で呟くと、弦を勢いよく弾いた。
その瞬間、重い圧力のようなものが周囲に充満し、前方のバナーから次々と小型艇が浮力を失って落下していく。
操縦者に呪殺技をかけ、喉を圧迫させているのである。
「腑抜けた奴らだ。それでもアスタルの選悦部隊か」
ライナーはつまらなそうに言うと、向かってくる小型艇の小隊兵を竪琴でなぎ払う。
竪琴の弓なりに沿った部分が鋭い刃になっているのだ。
「ルナンの奴はちゃんと働いてるんだろうな」
独り言を呟くと、掛け声を上げながら向かってくる小型艇の操者の動きを封じていく。
殆どが血で手を汚すことなく、呪殺によるものである。
「隊長、駄目です!人型は妙な術の心得がある様子で、近づく者を片っ端から艇から降り下ろしております」
「どうしてそんなことが分かるのだ!」
「目視しました」
「お前は目視できる程距離を詰めて…それで無事だったのか」
隊長は訝しげに兵士を見た。
「自分は二重(ふたえ)のエンチャンターを持っておりますゆえ…。ひとつ身を目くらましに置いてきました」
「なるほど…策を変えねばならんということか」
「このままではA班、B班、共に全滅です」
「乱れ雲の向こう側はどうなっている?戦果の報告が上がってきておらぬようだが」
「分かりません…ですが、一人が術師だったということはもう一人もあるいは…」
「相手の情報がないに等しいというのも厳しいな。よし、ここは一旦引いてバトルを立て直す。草の力を借りて、力の心眼を確かめるのだ」
隊長は撤退の命を下す為にのろしをあげさせた。
「のろしを3本、薄桃の煙に巻く」
バナーのリーダーが次々と伝令を後続に回していく。
その直後、雲の反対側で強烈な閃光が瞬くと、ぽっと黒い稲妻が空を切り裂いた。
雨粒のように黒い血が噴出し、操者を失った艇が天の落し物のような勢いで雲の切れ目から落下していく。
バトルの総指揮をとっていたリーダーは思わず溜息を漏らした。
「…遅かったか、向こうはもう駄目だ」
踵を返して残存兵に後退を命じる。
その時、ルナンは失速し、落下していく小型艇の回収作業を始めていた。
奪った艇の滑車に取り付けられている飛晶石を少し削り、浮力を持たせて落下していく艇を宙に繋ぎ止めておく。
「ケセラン、パサラン、後はお前らに任せていいか」
ルナンは指の増えた二匹に声をかけた。
主人の命にぴくんと耳を立て、『お任せください』と返事をした使い魔達は、薄霧のような分身の部下に、小型艇の回収作業を命じた。
ライナーがランドシップの甲板に小型艇を乗りつけた時には、既に日は暮れ、夜のとばりが顔を出そうとしていた。
流れ落ちる汗を手の甲でぬぐいながら近づいてくる彼に、ルナンは奪取してきたフローターの状態を確認しながら声をかけた。
「お見事でした。さすがにガーラントの直伝とあって、鮮やかなものでしたよ」
ライナーは当然のことを、と言いたげな視線をルナンに投げてよこした。
「あんな俗物どもにやられてたまるか」
「わざわざ私が武器を作るまでもなかったようですね」
「当たり前だ。お前のイリュージョンと僕の呪殺では得意分野が違うだろ。人の内側に働きかけて体調不良を即進させる効果の多い呪殺と、人の外側から働きかけて外的に負傷させる効果が殆どである幻殺は、属性ではなじみやすいともいえるが、攻撃に関していえばエネルギーのプラスとマイナス、物事の右と左、つまり真逆をいってる。自分と正反対の性質を持つ武器を作るなんてよく言えたものだ。作成したところで、僕の波動をはじき返しかねないぞ」
ルナンはしばらく言葉をためるような間をとっておいた後、途中までフローターの数を数えていた指の動きを中断した。
「…よくお分かりになる。ご自分の能力の性質を正確に見極めていらっしゃる事実には正直驚きです。――そうですね、王子の言われた通り、正反対の性質を持つ武器を作るのは得意ではありませんね。むしろ、反発する性質を無意識の内に持たせてしまう危険が伴う可能性の方がずっと高い。それを考えると、王子がご自身の【愛刀】をお使いになるのが一番安全で確実でしょう」
ライナーは無言でルナンの眼を見た。
その深みのあるアイオライトの瞳に揺れは見当たらない。
アスタル軍の調査隊とやりあって、何か期待以上の収穫を得られたかと確信する。
「それで?何を見つけたんだよ」
主語のないライナーの物言いに、一瞬「?」マークを頭上に出したルナンだったが、すぐに閃くものがあった。
「ま、ご覧の通り、ただでこんなにフローターが」
片手を広げて朱色のフローターの列を指す。
「黒に塗り直して使う気か。乗り手がいないじゃないか」
「じきに合流できますよ。さしあたってガーラントとグレースの隊、それからロード・ミーレスも付近にいるらしいです。先程、我々に攻撃を仕掛けてきたアスタルのバナーの中にレージエントを会得している者は一人もいませんでした。ということは、ハイレベルの隊ではない。地図が変わってしまった大陸の調査と…あとは護符か…ゲートか…まあそんなところでしょうね。もしかするとエルリックのバカげた上定への召集の呼びかけも、それなりに効力を発揮しているのかもしれません。アンダーソン憲章に則り、新たな条定が制定されれば、そこで宣戦布告をするのが正式だろうと手順を踏むはずです。そんなまどろっこしいことをせずに一気に地上を攻め落とせない理由はただ一つ。彼ら魔族が未知の大陸に対して恐れを抱いているに他ならない。我ら地上の者が天界に浮かぶ【闇】の地を恐れているように、彼らも同様の想いを抱いているのです。実際、あちこちに謎のゲートが出現し、その底の見えないブラックホールからは異形の魔物が吐き出されている。天変地異の影響で地形の変化や天候の変化が見られている。それから大陸全土で大規模な結界が張り巡らされている。こんなに一度に大質量な魔晶石の波動がぶつかり合ったらどうなるか…。小さい町や都市国家程度で、おのおの距離が離れていれば問題ないでしょうが、近いところだと…」
「何だよ、どうなるってんだよ」
ルナンは懐からカノーヴァを取り出し、ブーツのかかとに着火石を擦って火をつけた。
「どうなるか分かりません。よろしくない感じになりそうだと想像することはできますがね。あとは、第一アクセラータや第二アクセラータのいる本隊はここら辺りにはいないということ…それぐらいですかね。分かったことと言えば」
「たいした情報収集力じゃないな、それでも影といえるのか」
ライナーの不満げなもの言いにルナンは「成果の多少はこの状況下ならいた仕方ないこととお考えください」と冷ややかに返す。
「フン…ところであれは何だよ?奪ってきたアスタルの兵隊の私物か?朱色に燕尾の巾着の並びが気持ち悪いんだよ」
ライナーは発着口に停めてある朱色のフローターの方に顎をしゃくった。
フローターのスロットル脇に燕尾色の巾着袋がぶら下がっている。
( 俺が知るか )と心の中でルナンは毒づいた。
「私が知る訳がありません」
「さっきからずっと気になってたんだ。どうして朱色に燕尾なのかってね。有り得ない組み合わせだ」
( じゃあ、どうにかすりゃあいいじゃないか )
「では、どかすか王子の視界の枠外に移動させるかすれば問題解決ですね」
「仮定の話をするな」
ライナーは両腕を組んだまま口を閉じた。
その態度を命令と受け取ったルナンは、心の中で( へいへい )と軽口を叩きながら黙って巾着をフローターから除けた。
勿論、心の声が相手のエンチャンターによって駄々漏れしている事実を承知の上での事である。
ライナーは遮断機は降りっぱなしだと言っていたが、強烈な思念は有無を言わさず入り込んでくるという。
それなら俺の思念はどうだ。
常日頃からお前への不満不平で強烈な思念が渦巻いているだろう。
それをあえてぶつけてやるぞ、ストレス解消にな。
ルナンはささくれ立った気持ちでライナーを見たが、予想に反して彼は視線をあらぬ方に向けると発着口から姿を消した。
( なんだあれ )
ルナンは半ば肩すかしを食らった気持ちになり、先程除けた巾着を手にした。
明らかに兵士の私物である。
すすけた色と巾着のよれ具合から、相当使い込んだものなのだろう。
( …こういうのを見るのはあんまり… )
自分達と相対するものに「生活感」とか「人間らしさ」を垣間見てしまうと、どうにもやりにくいものである。
機械か化け物相手ぐらいの気持ちでいる事の方が何十倍も楽だからである。
ルナンは巾着を捨てることも出来ずにしばらく弄んでいたが、やがて意を決するとすうっと目を閉じ、意識を集中し始めた。
巾着が光と熱を帯びたと同時に、それは豪華な黄金色の外套となった。
ルナンは、イリュージョンで変化させてしまった外套の色を紫に更に変えようと思ったが、それを実行する為に必要な媒体が手元にないと分かると渋々諦めた。
「ま、いいか…」
左の肘に引っ掛けると発着口の奥の梯子からブリッジへ移動した。
使い魔に付近を警戒するように伝令を飛ばした後、コントロール計の針をざっと読む。
アスタルのバトルがいないことを確認すると、ようやく肩の荷が降りたような気持ちになった。思わず両手を首の後ろで組み、骨を鳴らす。
喉の渇きを覚えて、飾り棚からクラレートとティロールワインを取ってくると、しばらく2本を両手に持ち、どっちにしようか思案していたが、やがてティロールワインを棚に戻し、薬味の入った非常に強いワインで知られるクラレートの口をナイフで切った。
飾り棚の脇のサイドテーブルに立派な大理石で出来たトレーとゴブレットがセッティングされていたが、直接ラッパ飲みする。
すぐに酔いと眩暈が訪れた。
傍らの椅子を引くと、両腕を組んだ姿勢で目を閉じる。
が、すぐに目を開けるとワインをガブ飲みした。
閉じた闇の氾濫が、いやなところに引き込まれそうな感じがしたからである。
カノーヴァに火をつけ、深く煙を肺へと送り込む。
( 先にイザヴェルに行った方がいいのか?それとも条定に出頭するか… )
護符を一つでも抑えておいた方がいいのかもしれない。
王子も示唆したように、7つの護符はロックが外れてバラバラに飛び散ってると考えた方が妥当だ。オッツ・キィムで世界の均衡を保っていた時は問題なかったが、個々になったとなると話は別だ。以前、学者達が護符は単体では【負】の波動を吸収するのだと仮説を立てていた。一概に【負】の波動といってもいろいろあるから何ともいえないが、少なくともゲートは【負】の波動を放出している。
それから俺のイリュージョンと…王子様もそうだ。あいつは呪殺系だからな。
闇連中やフリーで動いている傭兵軍の手に渡ったら厄介だ。
ルナンは考えのまとまらない頭で無理やり有効的な案を叩き出そうとして、かえって訳が分からなくなっていた。
左手で頭を掻きむしると、短くなったカノーヴァを小皿に押し付ける。
その時、ビリッとした感触が両腕に伝わっていた。
嫌な予感がして、コントロール室を出ると、早足で薄く明かりの漏れている部屋を開け放った。
暗い部屋の中、唯一の明かりであるロウソクに照らされたライナーは、ベッドの端で身体を折り、手に挟まれた葉巻の先端は柔らかい手の甲を焼き、くすぶり続けていた。
ルナンは葉巻を取り上げると傍らの皿の上で火を消すと、驚いて顔を上げたライナーを鋭く睨みつけた。
「シーツに燃え移ったらコトですよ」
「無断で入ってくるな」
立てひざをつき、疲労困憊した声を出す。
「火事の危険を察知したので入らざるを得ません」
言葉を切り、火傷したライナーの手を取るとため息をついた。
「ご自分を痛めつけるシュミでも?」
「ある訳ないだろう。知らない間に燃えてたんだ」
ライナーは手を引っ込めながら言う。
「熱いという感覚はお持ちですか?それとも、五感がシャットアウトされてしまうぐらいお疲れなのですか」
「感覚なんていつもないさ。バラバラで部分的で…この説明はもう前にしたろ。それよりお前はまだ充分体力が有り余ってる様子だな。甲板の外を駆け回って、もう少し脂肪を燃焼してくるといい」
「遠慮しておきます」
ルナンは首をすくめると、椅子を引いて病人に付き添うように腰を下ろした。
ライナーがあからさまに嫌な顔をして、眉をひそめる。
「念の為ですよ、危険回避という言い方もできますが」
ルナンが聞かれる前に説明しておこう、と言わんばかりに早口で言った。
「僕が艇に火を放つとでも?そんなことするものか。嫌な男だな」
「まだ酔ってるんですか」
ライナーは火傷した手の甲を見ながら首を横に振った。
「頭の中に誰かが話しかけてくるんだ。うるさくてさ」
「幻聴…」
「さあ…僕にも分からない。だけど、いつものことなんだ。いちいち気にしてたらキリがないけど、たまに疎ましく感じる時がある」
「今がその時という訳ですか」
「まあ」
そうかもしれないな、と続けるライナーの様子は極めて穏やかに見えた。
「父上に振り向いてもらうためにはどうしたらいいんだろう。人から愛されるには何を補って努力すればいいんだろう…そんなことばっかり考えてるからかもしれない」
「王子は誰からも愛されてないとかお思いではないですよね」
「お思いだよ」
「どうしてそんな馬鹿げたことを考えるんです?王子がそう思っているだけかもしれないでしょう?」
「どうして、だと?」
ライナーはルナンを睨みつけた。
「他人の心が透けて見えてしまうという、不幸で何の役にも立たないエンチャンターを生まれつき持つ僕にそんなバカな質問をするなよ」
ルナンは沈黙を以って答える。
「……小さい時にさ」
ライナーはごろんと横になると、うわごとのように突然話し出した。
「犬を飼ってたことがあるんだ。ふさふさした茶色の毛皮をして、鼻のところが金色と赤が混じった色をしててすごくきれいだった。僕を初めて見た時、そいつは僕のことを尊敬するようなまなざしで見つめたんだ。手を出したら、ごちそうでも食べてるみたいに舐めてさ。僕はいっぺんでとりこになった。僕はそいつにジェイって命名した。それからジェイに、魔法のりんごで呪文をかけたんだ。『お前は僕のものだ。永遠に僕だけのものだ。僕以外の人間から食べ物と飲み物を口にしちゃ駄目だ。僕が死ぬ時は一緒に死ぬんだ。僕が苦しい時、お前も苦しむんだ。お前は僕以外の人間を愛さず、僕だけを愛するんだ。分かったか』ってね。それから僕達はずっと一緒だった。食事も全部僕が運んだ。ジェイの考えてることは何でも分かった。彼は本当はポニーになりたかったんだ。僕もそれを叶えてあげたいと思った。ジェイに鞍をつけて荷車を引っ張らせた。そうすると、本物のポニーみたいだった。ジェイには犬小屋なんて似合わなかった。彼はポニーだったから。僕は教育係に頼んで、彼に立派な納屋を与えるように言いつけた。でも奴はいうことをきかなかった。『王子、あれは犬ですよ。犬には小屋で充分です』って生意気なことを言ってた。だからかわりにガーラントにやらせたんだ。最初は渋ってたけど、その内、特製の納屋が与えられた。僕はふかふかで居心地のいい藁をいっぱい与えた。ジェイは、僕がやろうとした栄養たっぷりの干草を決して口にしようとはしなかった。でも僕は満足だった。少しぐらい気が強い方かいい。ジェイは強いポニーなんだ」
ルナンは勢いついて止まらなくなったライナーの話を黙って聞いていた。
彼の様子を見ていて、本当はずっと自分自身を罰し続けているのかもしれないな、と思った。
「……ある時、僕は原因不明の高熱に襲われた。何かで膝をケガして、知らずに放っておいたんだ。そしたら、普段は痛みを感じないのに、その時はだんだん痛んで…。僕は嬉しかった。ちゃんと生きてる。僕は正常だって思えたからだ」
そこで一旦言葉を切ると「…でも」と更に続けた。
「思ったよりそのケガは深刻だったんだ。何日も熱が下がらなくて、もう死ぬんだろうなって思った。それでもいい、僕は一人で死ぬんじゃないから平気だと思った。僕だけを愛するジェイも一緒に死ぬんだ。怖くない。…結局、いろいろあって僕は回復した。納屋に行くのが待ち遠しかった。ジェイは死んでなきゃいけない。僕以外の人間から食べ物も飲み物も口にしないんだから。僕は想像した。納屋で死んでいるジェイはどんなに憐れだろう。憐れな毛皮の袋みたいに骨と皮だけだ。僕は泣いて、叫んで、僕の一番の親友を見捨てさせた奴らを恨むだろう。彼は僕を愛しすぎて死んでしまったんだ。鋼鉄の心を持て、と自分を励ましてた。心の準備をしろ、と。でも違った。ジェイは生きてたんだ。ジェイは僕を見て走ってきた。尻尾を千切れんばかりに振っていた。僕は動物にも見捨てられたんだ。どうして寂しがってないのか、どうして死んでないのか、どうして僕との約束を破ったのかってわめいた。ジェイは一人ぼっちで死んでなきゃいけなかった。それなのに、彼の毛皮は艶々してて、僕よりももっとよく世話をしてくれる人を見つけたんだ。…僕はジェイの納屋に敷かれた柔らかい藁を全部掻き出して、水も食べ物もぶちまけた。そうして彼を閉じ込めて、鎧戸に頑丈な鍵をかけた。
僕は裏切られたんだ。ジェイが悲しそうに鼻声を出していたけど、もう僕は気にしない。だって僕はもうジェイを愛していないんだから。彼は真っ暗な中で飢え死にするんだ。僕が苦しんだように苦しむべきなんだ。冷たくて堅い床に寝て、きっと身体中の骨が痛むだろう。でも、そうやっていると僕がいないのか寂しくなるんだ」
「それで?」
「…それからジェイの姿は見てないよ。狼に食い殺されたんだ。僕はジェイの仇を討ってやった」
「仇?」
「大きな厭らしいケダモノだよ。そいつがジェイの納屋にいた。僕は汚らわしい赤い眼と心臓を撃ってやったんだ」
いまいましそうにしゃべるライナーを見ながら、ルナンは何かが激しく揺さぶられるような錯覚に陥った。
( …こんなにも容姿に恵まれているのに、自分に全く自信が持てない奴も珍しい )
ライナーのコバルトブルーの澄んだ瞳がルナンを捉えた。
「今、なんか僕のことで考えただろ。ここにずっと居座るつもりなら、そういうのやめてくれ。すごく疲れて、雑音に神経を擦り減らされるんだ」
イライラした口調で告げると、背中を向ける。
その背中に向かってルナンが話しかけた。
「王子は炎の中で宿って、暑さの中に生まれたようですね」
「どういう意味なのか全然分からない」
不機嫌な返事が返ってきたが、突然振り向くとルナンの顔をじっと見つめる。
「だが、別に構うことはない。この僕に無意味な言葉を投げつけておいて平気な人間はお前の他にも腐る程いるだろうが…でも、今はお前一人の対処で済む。世の中の人間は、自分は武器を捨てないくせに僕には武装解除しろと一方的で身勝手な要求をする。僕の持つ言葉や行動のシステムを全て破壊し、踏みつけにする。そのたびに、言いようのない理不尽さと憤りを感じたものだ」
「誰が何と闘ってるって言うんです?」
ライナーは肩をすくめた。
「闘ってなんかいないさ。きっと僕だけなんだろう。――両方の目が開いていて…つまり起きて覚醒した状態にいる時間は、僕にとって戦いの場でしかない。眠りから覚める瞬間、生き返る苦しさを感じるんだ。何者をも侵食できない僕だけの聖域に土足で踏み込まれる時は決まって、何も認めず、自分自身を完全にコントロールする。それが成功したら相手の息の根を止められる仕組みだ」
ライナーは窓を見ると、独り言のように呟いた。
「…外はもう真っ暗だな。いつの間に夜がきたんだ?」
「一日が過ぎるのが早い時だってありますよ」
「お前は夜が苦手なんだろ?」
ルナンが一瞬、出遅れたように間をあけた。
彼の返事を待たずにライナーが続ける。
「この間、そう言ったろ?特に月が丸くなるジュゴンの夜なんか神の眼みたいだって。僕は昼間より夜の方が好都合だと思うけどな。周りのみんなが言うんだ。『昼が隠れて夕闇に染まる瞬間、色彩を感じる』とね。でも僕には全然理解できない。喜びや悲しみ、孤独や『霊感』を感じるなんてどういうことなんだろうね。痛みだって殆ど感じないのにさ」
「その火傷は痛くないんですか」
「何も感じない」
ライナーはそう言うと、火ぶくれが出来上がっている部分をほじくり返す。手の甲がみるみる血で染まる。
「おやめなさい。細菌が入って炎症を起こしてしまいますよ」
ルナンがたしなめる。
「夜の闇はゴーストを連れてくるんだ。色彩を感じない僕にも感じさせてくれる。それに闇は見たくないものを全て消し去ってくれる。僕の姿も形も存在そのものも空気中に溶けていって、風景と同化する。自由になってどこまでも飛んでいけるんだ」
ルナンの注意が耳に入らないのか、相変わらず傷口を広げて楽しむかのようにむしり続けている。
「昼の陽光を浴びて瑞々しく咲き誇るアザレアを見れなくても?」
「花なんていつか干からびて腐っていくだけだろ。いつまでも同じではいられないんだ。そんなものに興味はないね。――そういえば、お前の名前はなんでガゼリオ( 償う悪魔の )フレイ( 戦利品 )なんだ?」
ルナンは溜息をついた。
「―…王子。そんな事ばっかり言ってるとほんとに馬鹿みたいですよ。言葉自体に深い意味なんてありません。それに正しくは、神聖名とファーストネームを合わせた全部で【悪魔的な】という意味だそうですが、それだってこじつけのようなものです」
「意味のない名前なんてあるものか、大抵、意味があって付けられるものなんだ」
ライナーがムッとして反論する。
「僕の正式名を知っているか」
「勿論、知ってますよ」
「神聖名を含めて【奇跡的な魂】という意味があるそうだ。僕は、父上が祖父母の事を何も教えてくれなかったせいもあって、ギャラガー家の由来を知らないけどね。だけど、想像するにきっと気高くて狡猾な一族だったに違いない。でなけりゃ、僕みたいに生きていくのに苦労を強いられるようなのが出てくるなんて変だものな。僕はどこか歯車が狂った時計みたいなものだ。どこが狂ったのか分からないまま、ネジを片手に間違った時を刻み続ける」
「王子」
「僕は怖い。生きていくのが。いつか何もかも壊れてしまいそうで。僕が愛するものはすぐ壊れる。それは僕が悪いんじゃない。ただ、ちょっと不器用なだけなんだ。でも、大切に想えば想う程、相手はすくみ、怯え、僕の前からいなくなってしまう。親でさえ僕の魂を悪い種だとか言う」
ライナーは両目を片手の甲で覆った。頭がくらくらしてきて吐き気がする。
こうして内なる思いを【告白】という形で表面化することによって、自分自身が剥き出しにされたように感じるのだ。
だけど、心の一部分では今にも何かを理解しそうになっていると警告してくる。
これまで価値の分からなかった、封鎖されて使われないままになっていた知識が、どこか奥深いところに眠っているように思える。
「王子」
「僕はいい調子だよ」
「パターン化された台本のセリフは聞き飽きましたよ。王子はどんな時に幸せを感じるのですか?」
幸せ?僕が幸せになれるのは、彼が僕の人生からいなくなる時だけだ。
彼がどこかに潜んで、この世で生き続けている限り僕は幸せになんかなれない。
…思い出した。僕は彗星の生贄になって死ぬかもしれないんだ。
だったら、彼がこの世から消え去る前に、僕の方が去るかもしれないってことか。
上等じゃないか。
ライナーは拳を固めた。
誰が死ぬものか!
父上にも愛されなかった僕が先に死ぬ?そんな馬鹿な!
「何を考え込んでるんですか、王子」
…遠くの方で声が聞こえる。
僕はここにはいないというのに。僕は今、透き通ったガラスで誰かに姿を見られるはずがない。感覚も意識も何もない状態で横たわっている物と同じという訳だ。夜の闇も味方をしてくれる。
「王子、唇を噛むのをおやめなさい。血がにじんできてますよ。それに火ぶくれを触って傷口を広めるのも、これ以上はやめておいた方が懸命です。跡が残ってしまうでしょう」
いつか大昔、目の前のこいつが言っていたことがある。
何かを感じたり考えたりするためには、神経系が備わってなくてはならないと。
それは、これまでの自分の認識を根底からくつがえすような論理だった。
僕は部屋に戻ってきて、「死んでしまった」物達を見て、この新しい「認識」が沸きあがってくるのを、胸が締め付けられるように感じていたものだ。
僕は僕が思っていた以上に独りであることを恐ろしい程感じた。
僕の周りのものは何一つとして、僕がここにいると分かってくれるものはないのだ。
「僕は誰とも、何とも一緒ではないんだ」
もはや否定するこのできないシステムを受け容れない訳にはいかない。
「自分が真っ二つに引き裂かれていく気分だ。脳のどこかで錆付いた歯車が、突然動き出したようでもある。だけど、制御範囲内だから何とか耐えられる」
「王子」
ライナーは突然、横たわっていた身体を起こし、それと同時に全身から光の洪水を放った。たくさんの色の氾濫が、押し寄せる感情の波のように周囲をとりまいたと思ったら、あっという間に妖精のような姿に変化する。
ルナンは眩しさに眼を細めながら駆け寄り、前に倒れ掛かるライナーを受け止めた。
息をするのが苦しい。胸は鉄のベルトを嵌められたように締め付けられ、窒息しそうになる。物の死骸に囲まれて生きてきた事実を知らなかった。その事実が、一層気持ちを沈みこませる。
ルナンは、ライナーの全身ががたがたと痙攣しているのを何とか治めようと、背中をゆっくり撫で、誰にも聞きとれないような小さな声で、大丈夫ですよ、貴方の敵はここにはいませんよ、と囁き続けた。
それはライナーにとっては、大きな背丈のある逞しい木々に守られているような感覚だった。温度があり、たのもしく、包容力のあるもので、新しい鍵をもらったような気分でもあった。鍵はたくさんあって、まだまだ知らない未知の世界がある。
「…自分がどこかに属してる、自分も一緒にいるという感覚…」
何かと共にあるという感覚というのは、今のこの状況のこと?
ここは自分の居場所?
背中の大きな手が温度を以って、上下に移動していくのが分かる。
その感覚が胸の中に突き刺さって浸透していくのが実感される。
「アザレアの匂いがする」
ライナーはふいに呟いた。
「アザレア?そんな香は焚いてはいませんが…」
「いや、これはアザレアの匂いだ。鮮やかな紫の…」
目の前にあるこの髪と一緒だと思った。初めてこの髪を見た時、思わず触りたくなった。
高貴な紫はいつだって僕の憧れで遠い存在だ。
その髪が手を伸ばせば届くところにあって、そこから一定の脈を打つ心臓につながっている。それがよく知っている人物のものだと思った。
「少し、落ち着かれましたか」
「ディのことを思い出した」
「え」
ライナーは顔を離すと、ルナンの眼を見つめた。
「ディアブロのディ」
「ディアブロ…?」
「お前の名前の一つだよ。僕の中のもう一つの意識がそう言ってる」
「もう一つって、レンジローバーのことですか?」
ライナーは頷いた。
「お前は忘れてるだけだと声が言う。もしかするとコルトに関係があるのかも」
( コルトか。あれも謎の一つだな。それよりも… )
ルナンは胸に顔をつけてきたライナーの背中を摩りながら、彗星のことを考えた。
彗星の申し子…鎧を脱ぎ去った本来の姿。
だとすると、普段の鎧に覆われた状態とエラい違いじゃないかと改めて実感した。
普段の彼は、人に触れられる事を極端に嫌い、目すらまともに合わせない。
たとえ睨み据えて目が合ったとしても、そこには人間らしい感情が何も表れていなかった。相手を見るガラス玉のような瞳も、人を見ているというよりかは、ゼンマイ仕掛けの人形が行ったりきたりするのが視界に入っている、という感じで、とてもじゃないが気分のいいものではなかった。
それに加えて今の姿は、人を人として感じていたり、温度があるなどと言うようなところを見ると、感情を持って接触することがどういうことなのか必死で掴み取ろうとしているようなところがある。
生まれたての赤んぼうが世の中のいろんな初めての事柄に興味を持つように、この妖精も知りたいのだろうか。
それに…。
「ところで、王子のエンチャンターは今、どうなってるのですか」
「何も聴こえてこない…。心臓の鼓動が規則正しく胸を打つ音が響いてくる。僕は今、ひどく剥き出しにされて怖いはずなのに、恐怖がどこにも見つからない。不思議なんだ。吐き気も動悸も心が叫び声をあげることもない」
また顔を上げて目が合う。
同じコバルトブルーの瞳なのにこうも印象が違うものかとルナンは再認識した。
二重の宝石のような瞳の中に自分の姿が透けて見えるようで、何をも隠し通せるものではない、とこの非常識な美の前に投げ出されている気分である。
ルナンはすうっと耳たぶが熱くなるのを感じた。
「あたたかい」
ライナーは静かに手を胸に当てると続けて言った。
「温度が違う。僕がこれまで触ってきたものは単なる肉と血と骨の塊にすぎなかった。意義がないと言ったらいいのかもしれない。感情とか情緒とかいうものには何の関係もなくて…でもこれは違う。それで違いが分かったんだ」
何かに胸を打たれるような感覚というのは感動というのだろうか。
失い続けてるというのはただの思い込みだったのだろうか。
「また、こんな風に感じられると思う?」
ライナーの質問に、ルナンは勿論、と答えた。
「僕達はいつ知り合ったの?それからどれくらいが経ったか分かる?」
この彼の問いには自信があった。ルナンは穏やかに微笑むと「C.0013 ジュゴン・3クール」と答えた。
それよりもずっと前から姿だけは目撃していた。
ただ、その存在が何なのかはっきり分かってなかったんだ。
「初めまして」
ルナンは身体を離してライナーをヘッドボードにもたせかけると恭しく一礼した。
ライナーが驚いたような顔をする。
「600暦ぐらい経ったのかと思った」
「これからでしょう」
「僕のことをどれくらい知ってる?もう知るのはいやになった?」
「一つずつ発見していきますよ」
「知りたくない?」
「いいえ」
「もう飽きた?」
ルナンは首を横に振った。
「君は、本当の僕を救い出し、眠っている意識を掘り起こしてくれる。そんな気がする」
灰色の霧に包まれた闇の中を航行していたケーシップのガーラント隊は、鬱蒼とした森の近くに降りると、テントを張り、結界の準備を始めた。
「隊長、結界石を二重に敷きました」
グレースがガーラントの許可を得ようと前に進み出る。
ガーラントは細かく点検できるように、ぐるりと結界石の周辺を見て回ると、満足そうに頷いた。
「ようし、充分だろう、グレース。皆にそれぞれのテントで休息をとるように伝えろ。交代で見張りを立てることを忘れるでないぞ」
「ハッ」
グレースは敬礼すると、迅速に行動した。
彼の指示でようやく休憩ができると知った兵達は、安堵の表情を浮かべる。
しばらくして、各小隊のテントが中で明かりの灯を落とし始めるのを見届けると、グレースもガーラントのテントに向かった。
テントの両端についている警護兵に軽く手を振ると、速やかに中に入る。
ガーラントは寝床の上であぐらをかきながらエールを飲んでいるところだった。
グレースにエールの入った銅杯を渡すと、自分の杯と合わせる。
グレースは頭を下げると、杯を一気に飲み干した。
「いい酒だ。温度もちょうどいい」
ガーラントはグレースの杯に酒を注ぎながら言った。
「はい、自分もそう思います」
「明日は旧マベロード付近に到着できそうだな」
「ええ。このケーシップならば確実でしょう。使い魔が、旧サディラスと連奇石付近で「闇」が動いたとの報告をしてきておりますが」
ガーラントは眉をしかめ、表情を曇らせた。
「うん、気になるな。旧サディラスは我がREGENDの保護国の中でも有数な魔導部隊が結集しているところ。そう簡単には落ちんと思うが…。我らが特佐殿の目下の最優先事項は、REGEND本隊の残存部隊の捜索と集結。他へ人員を割くゆとりはないからな。無事を祈るのみだ」
「隊長、王子は大丈夫でありましょうか」
グレースが心配そうに呟いた。
ガーラントはガハハと豪快に笑うと、自分の杯に酒を注ぎ足す。
「小心者は出世できんぞ、グレース。あの方をどなたと心得る。フレイ特佐お墨付きの、俺の太刀裁きを王子が幼い頃から直々に仕込んできたのだぞ。怪しい下等陰魔や魔族ごときに易々と屈するお方ではないわ」
「はあ…そ、それは確かに。王子がお強いことは自分も知っております。しかし、王子はこんなに長い間、慣れない環境でお過ごしになったことなどないはず。自分は王子のお身体の方を案じているのです」
「…それはそうだ。王子は肉体的にというより、精神的にお強い訳ではない。お前、覚えてるか?グレース。王子がまだ9歳ぐらいの時、犬を飼っていたことがあったんだが」
グレースはああ、と反射的に声をあげた。
「その時の事でしたらよく覚えてますよ。錆びた釘でケガをした王子を発見したのは自分でしたから」
「城の庭の生垣に半身を突っ込んだような形で倒れていたと言っておったな」
グレースは酒を口に含むと、記憶の糸をたぐり寄せるように続けた。
「声をおかけしたんですよ。目が開いていたから…」
その時の情景が頭の中に蘇ってくる。
王子は赤く火照った顔をして、どんよりした目つきでグレースを見上げていた。
『さわるな』彼は低く呻いた。
『もうすぐ死ぬんだ…あそこに行くんだ』
『大丈夫ですか、王子。今、人を呼びます』
「…自分は必死で助けを呼びました。王子の身体を茂みの中から引っ張り出しますと、王子は脚が痛いとおっしゃいました。私は無我夢中で王子を抱き上げると、城内に向かって駆けました。私に抱かれている間も、王子は独り言を呟いておられたのです」
『…地上は死んだ人間でいっぱいだ。死んだ動物や死んだ植物。そういうのは全部肥料になるんだ』
グレースは遠くを見るような目をして、その時の様子を語る。
「王子はひどい状態でした。額に玉の汗を浮かべ、小さな痩せた体は意識を失ってぐったりしておいででした。ケガをしたという脚は通常の3倍に膨れ上がり、与える全ての薬に拒絶反応を起こして…」
「そうだったな。俺は王子が混濁した意識の中で、ずっとジェイの名前を呼び続けているのを聞いて、納屋に行ったのだ」
グレースはガーラントの続きを黙って待った。
「……俺はな、王子からキツく申しつかっておったから犬の様子は詳しく知らなかったんだが、納屋に行ってジェイを見た瞬間、あまりの光景に息を呑んだものだ」
「ガーラント隊長…」
「ジェイはな、納屋の土間に打ち込んである杭に、鎖でつないでおったのだ。湿った犬のエサが届かないところへ置いてあった。ごわごわした毛並みで、俺は一目そいつを見た途端、奴がどんなに飢えているかわかった。耳ざわりな喘ぎ声を洩らして、大きな落ち窪んだ眼で訴えるように俺を見上げたんだ」
彼は言葉を切り、つまみがわりのナッツを口に入れた。
「地面には逃げようとしてあがいた爪の跡がくっきり残ってたよ…。俺は正直、恐ろしかったな。腐りきって悪臭を放っていた水桶を捨てて、新しく汲んだ水を与えようとしたら、ジェイはむさぼるように飲んだ。長い間一滴も水を飲まなかった後は、犬だって人間のように少しずつ飲まなきゃならんのだ。俺は水桶からジェイを離して、奴の食料が並んでいる棚のところへ行って、一番良さそうだと思えるものを選んだ」
グレースは息を詰めてガーラントの話に聞き入っている。
「奴の飢え方はひどいもんだった…。美しかったに違いない奴の毛を撫でると、あばら骨がごつごつと手に当たってな…。王子の考え方だと、奴が辛い思いをすればする程、再会した時に十倍も感謝するだろうという事になるのだ」
「隊長…その続きは自分も知ってます。王子の熱が下がり、ケガが治って少ししたらジェイが殺されたんです」
ガーラントは深い溜息をついた。
「…俺は王子にとって余計なことをしたのかもしれん。どの道、王子にはジェイが別の生き物に見えていたらしい」
「…狼を撃ったとおっしゃってましたね」
「ああ…」
ガーラントは肩を落として黙り込んだ。
「隊長、自分はこう思うのですが…王子はフレイ特佐とご一緒に行動されてから、少し変わったように思えるのです。際立ってどこがどうという訳ではないのですが、勿論、いい方向にです」
「そうかな?俺にはよく分からんが」
「いいえ、絶対にそうです。誰にも心を開くことのなかったお方が特佐には…。あの方が王子を変えてくれるかもしれません」
グレースの明るい声に、ガーラントは表情を和らげた。
「…そうだな。お前の言う通りかもしれん。おの方は我らの正義で、生きる糧でもあるのだ。あの方がついていらっしゃる限り、我々の未来に希望はある。そういう事だな」
「はい、ガーラント隊長」
グレースは力強く答え、もう一度杯を合わせた。
『お前、守ろうとするものに対し強くなりたい、そう思ったことはあるか?』
『何それ?僕が何を守るって言うのさ』
『…例えばそうだな、友達や好きな人なんかさ』
「好きな人も友達もこっちの世界にいないっつーの」
彰人は読みかけの小説を閉じると溜息をついた。
「…そうか。俺ってそういう存在…いないのか。それはそれで何か寂しいものがあるよな」独り言を呟き、天井を見上げた刹那、ノックの音がした。
「はい?」
彰人は咄嗟に時計を捜したが、それらしきものがないと分かると、半身を起こして訪問者を待った。
「すまんな、こんな夜更けに」
ギュネイが扉から顔を覗かせると手にしたワインを持ち上げて見せた。
「寝酒に一杯やらないか?」
彰人は目が点になりそうになるのをぐっとこらえて小さく頷いた。
「俺は未成年スよ」
釘をさすつもりで言ってみたが、逆に言葉の意味の説明を求められてうっと返事に詰まる羽目になる。
「お前の国には面白い規則があるのだな。その【みせいねん】という規定に引っ掛かるものは酒が飲めんという訳か。一体、誰がそんなこと決めるのだ?」
「一体誰がって言われても…天皇でしょ」
彰人は底が見えない程、濃厚なワインをちびちびと飲みながら答えた。
「てんのうって何だ」
「天皇スか?…えー…国の代表つーか…こっちで言ったら王様みたいな存在になんのかな」
「国王か」
「…ま…そんなもんスね。…隊長、もうやめて下さいよ。俺に難しい質問ばっかり振るのは。俺、あんな頭よくないんで、国とか政治とか苦手っつーか…知らないつーか」
「自分の国の事ではないか」
ギュネイはおかしな奴だ、と笑いながらグラスに並々ワインを注いだ。
「愛国心ゼロでも何とでも言ってくださいよ。マジで勘弁なんスから」
彰人が言った時、彼の耳に波の打ち寄せる心地良い響きが音楽のように聴こえてきた。
――そうか。
ここは船の中だった。
バーモントとかいう付近でグランドフィルダーに乗り換えるまでは船でということを聞かされ、ドクター・キニアスの館を出発したのは――あれはいつのことだったのか。
周りは見渡す限り一面、海、海、海。
夜ともなると不気味なくらい静けさと、不安な気配をどこからともなく波間に乗せて運んでくる。
彰人は船室の小窓から月の光に照らされて見える地平線を眺めながら、故郷に思いを馳せた。
「何か考え事か?」
ギュネイの声で我にかえった彰人は、頭を掻きながらつくり笑いでごまかした。
「…いや、その…みんなどうしてるかと思って」
言ってしまってからギュネイの顔がかすかに曇ったように見え、慌てて訂正する。
「あ、すんません。そういうつもりじゃないッスよ」
( ヤベえ…どう説明していいのかわかんねえ )
彰人は焦りながら、未だに着慣れないこっちの世界の衣服の、肌に密着してごわごわした部分をうっとうしそうに仰いだ。
「その服のせいか?それが気にいらないということか」
「えっ」
彰人は違いますってば、と言いながらグラスに残ったワインを一気に飲み干す。
ギュネイはベッド脇に置いてある長持ちから彰人が来た時に着ていた服を取り出した。
「我慢することはない。嫌ならこれを着ればいい。味方の兵には俺から言っておく」
彰人はギュネイの差し出した服を断ると、息を吐き出した。
「…すんません、俺、ほんとに。なんつか、俺、まだ実感ないっつーか…こっちにいる…。何て言ったらいいのか、その…現実として受け止めてないところがあるんスよ」
「現実?」
「この服も嫌だとかいうんじゃなくて、民族衣装着てるみたいでウソっぽいっつーか。―…あー…っつっても、これじゃ駄目だっつー自覚もあるんスよ。けど…」
ま、中途半端だよな、俺。
言ってることも支離滅裂だし。
そう。駄目なんだ、こんなんじゃ。
俺はどんどん哀れで惨めな奴になっていく。
こんな時にイヤという程思い知らされる自分の弱さやもろさ。
そしてますます自分が嫌いになる。
本当に――俺は弱い、弱すぎだ。
「…すんませ…俺、ちょっと…」
彰人は膝を抱え込み、頭ごと突っ伏してしまった。
閉じられた二つの目からは涙が溢れ出す。
彰人は止まらなくなった涙をせき止めようと必死で咳払いをしたが、逆効果となった。
ギュネイは彰人の肩を引き寄せると、殆ど呟きに近い声で話し出した。
「――俺には家族がいない。つい最近、父上がお亡くなりになってからは殆ど独りも同然だ。母上はもう随分前に逝かれたしな。たった一人の兄弟は生死も分からん。――まあ、兄弟といっても腹違いなんだが。だからかもしれんが、お前を見ていると昔の自分を思い出す。ただ、がむしゃらに野望だけはあって…でも本当はいつだって孤独と戦ってきた。人に気づかれたくなくて、自分を無理にふるいたたせたりしてな」
彰人は顔をゆっくり上げた。
ギュネイは目を真っ赤に腫らし、紅潮した彰人の顔を見て笑った。
「お前は今みたいな顔がいい。ずっとそういう顔をしてろ」
「…今みたいなって、泣きの入った野郎ってサイアクッスよ」
「ははは、そりゃあそうだ」
ギュネイは彰人の背中を叩くとワインを継ぎ足した。
「隊長…その…隊長の兄弟って、どこにいるのかわかんないんスか」
「ん?ああ、まあな。アスタルはご存命だと信じてるみたいだけどな」
「アスタル…」
「兄上の父君だ。アスタル・ガゼリオ・フレイ。ミドルネームのところが俺のガセルグに似て異なるという意味で付けられている」
彰人はへぇー、と相槌を打つと、ギュネイにワインを継ぎ足してもらった。
「ゼルダ・ガゼリオ・フレイ。兄上の名だ。―…いい名だろう?」
「…そうスね」
彰人は、この人の兄はどんな人なんだろうと想像してみた。
女っけがなく逞しいが、気骨のあるこの人の異父兄弟。
( 俺が日本人だからかな。こっちの世界の人ってみんな濃いっつーか存在感あるように見えんだけど )
「兄上には俺もお会いしてみたい。顔すら知らないからな」
ギュネイが言いながら遠くを見るような眼差しを天井付近に向けた時、騒々しい足音がして船室の扉が開かれた。
「お休み中のところ、申し訳ありません」
「どうした」
息を切らせながら頭を下げる兵士にギュネイが尋ねる。
「旧サディラスが落ちたとの報告がありました」
「何だと?あの地上屈指の魔導部隊が落とされただと?やったのは誰だ!デューンか」
「いえ、カレル・ラーン。ドラーケン部隊です」
ギュネイは握り拳を固めた。
「…カレル…!」
「隊長…サディラスの遺跡がエルリックに取られたとなると…」
「分かっている」
彰人は二人の緊迫した雰囲気に圧倒されながらも、物音を立てないよう、息をひそめて後方から見守っていた。
ギュネイは兵士に、サディラスへ向けて討伐部隊を編成させ、ドラーケン部隊の追尾指揮をコマンダーに託して兵士を扉の外へ出した。
彰人の方へ向き直ると苦笑いを見せる。
「すまんな。心細い思いをさせて」
「何かあったんスか」
「…ちょっとな。傘下につけようとしていたところが襲撃されてな」
「全滅したんスか」
ギュネイはいや、と片手を振った。
「この天変地異でどこもかしこも想定外の大惨事だ。世界の均衡を保つ役割を担う護符はバラバラに飛び散り、彗星の波動を吸収し、蓄えるべく秘密裏に建設された遺跡は敵方の手に渡った。あと数クールもすれば、エルリックの掲げた上定がアンダーソン憲章に則って開催されるというのに、俺には切り札になる手駒さえ満足に持ち得ない有様だ。このままアスタルの護衛で上定に出席するということは、丸裸で敵陣に乗り込むようなものだ。その前に、俺としては一つでも手札を揃えておきたいのだがな」
彰人は、虚空を見据えて話すギュネイに威圧感を覚えた。
( …なる程…すげえや。何かしんねえけど隊長って感じだよな。雰囲気あるっつーか… )
「こんな話になってしまってすまんな。お前は何も気に病むことはない。事態が落ち着いてくれば突破口が見えてくる。余計なことは考えずに睡眠と食事を十分とって健康であることを心がけていろ」
ギュネイはそう言い残すと部屋から退出した。
後に残された彰人は、ワインで目を回しながらベッドに飛び込んだ。
( …戦争…やってんだな。実感、沸かねえけど )
目を閉じ、別れてきた友達の顔を脳裏に思い浮かべる。
それからしばらくぼけっとしていたが、ふいにベッドから跳ね上がるように身を起こすと、リュックから紙とペンを取り出して日記を書き始めた。
○月×日 天気 曇り
相変わらず海の上が続く。
赤マルがとうとう切れやがった。ちくしょー。
大事に大事に吸ってたのに、隊長が美味いとも感じてないくせに、もう一本もう一本とねだるので渋々ふるまってやっていたら、とうとうなくなった。
ニコチン中毒の俺的には非常事態って訳だ。
明日から葉巻、吸って慣れるべし。
「……緊張感とかねえのかよ」
ペンを置き、読み返しながら一人ごちる。
○月▲日 天気 晴れ
昨日まで俺は確かに東京にいた。
でも今はどこにいるのかわからない。
これから俺はどうなるんだ?
人の言葉がわからない。
わかることなんて一つもない。
×月□日 天気 不明
いれかわり立ち代り人がやってきては何かしゃべっている。
うぜえと思うが、それをどうやって伝えたらいいかわからない。
イライラする。
タバコが吸いてえ。
☆月■日 天気 雷
言葉が通じないってことは不便極まりない。
もどかしいわキツいわストレスたまるわ最悪。
もうあれから何日とか数えるのも飽きた。
ヒマだけど何もできることがない。
ゲームもない。クリス・タッカーの新作も観れない。
ワールドカップ、楽しみにしてたのに。
×月◆日 天気 ?
アムロみたいな髪型の男がしょっ中、部屋にやってきてはいろいろと見せたがる。
何をどう見せられても俺は何も分かんねえっつーのに。
一体、どこの国の服かは知らねえけど、通気性悪いっつーの。
硬いしごわごわするし重いし。
これがパジャマだったら笑うしかない。
彰人はこの世界にきた頃の日記を読み返しながら溜息をついた。
( …文才、ねえな )
それに、今の俺と何もかも一緒だ。成長ないっつーか。
日記がわりの羊皮紙を丸めてリュックに入れると、シーツを頭から被った。
( …んな簡単にいかねえだろって )
隊長も健康でいろって言われたばっかじゃねえか。
訳わかってねえ状態でいろいろ考えたって無駄だろ。
彰人はそのまま深い眠りの中に落ちていった。