現在、利根川・渡良瀬川・鬼怒川は利根川一本に合流して銚子で太平洋に注ぐが、元来利根川の下流部(常陸利根川)は江戸時代初期までは毛野川の下流部であり、古来利根川・渡良瀬川はそれぞれ別個に江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川だったと言われる。江戸の街を利根川等の水害から守り、関東平野の新田開発を推進するため、また江戸と北関東以北を舟運で結び流通を闊達化するため、江戸時代初期に徳川家康の号令で利根川を渡良瀬川水系や・鬼怒川水系とつなぐ瀬替え(利根川東遷(とうせん=東に移す)事業)が始まり、さまざまな工事を経て、利根川の本流は銚子の方へ流れるようになった。なお、利根川水系や渡良瀬川水系は洪水によって流路がしばしば変化していたうえ、東遷事業などに伴う水路の開削・閉鎖が複雑に行われたため、東遷以前の河川を現在の河川と比較対照させるのは難しい。
鬼怒川はかつて毛野川と呼ばれ、古代・毛野川流域には毛野国が成立し、下毛野氏はヤマト王権の中でも一定の発言権を有していたと言われ、下毛野古麻呂は藤原不比等らとともに、大宝律令(701年)の編纂や下野薬師寺の建立に関わった。下野薬師寺は東大寺(ヤマト)、観世音寺(筑紫)とともに国立三戒壇の一つに指定され、奈良の法隆寺と同等の伽藍を有したと言われる。当寺の修行僧であった勝道上人は毛野川上流に日光山を開山したと言われる。鎌倉時代以降は下毛野氏の流れを汲む藤原北家道兼流・宇都宮氏が鬼怒川流域一帯を治め、安土桃山時代後期以降は主に清和源氏流を称する諸氏が支配し現在に至る。
以下に鬼怒川の氾濫例をいくつか紹介する。
1683年(天和3年)の日光大地震により鬼怒川支流の男鹿川が現在の海尻橋付近で土砂に堰き止められ自然湖五十里湖が出現したという記録が日光東照宮の輪番記録に残されている。この堰き止め湖は高さ70mで湛水面積は現在の五十里湖より大きく、40年間存在していた。この間会津藩により洪水吐き工事が行われたが失敗。その間男鹿川沿いの会津西街道は通行不能になり会津藩3代藩主松平正容によって1695年(元禄8年)に代替街道として会津中街道が整備された。会津西街道を通行止めにしていた自然湖である五十里湖はその後1723年(享保8年)の大雨で決壊し、死者1万2千人を出す土石流となり、宇都宮、真岡近辺まで被害が及んだ。
また、東北本線開通当初の路線は現在の東北新幹線のルートに近い宇都宮駅より真北に進路をとる路線だったが、当時未治水であった鬼怒川の度重なる氾濫による橋梁被害、運休が続いたことにより、1897年(明治30年)現在のように宇都宮を出て直ぐに東に大きく迂回する路線変更を余儀なくされた。