ジャイアント馬場
ジャイアント馬場ジャイアントばば
新潟県三条市出身のプロレスラー。全日本プロレス元代表取締役社長・会長、NWA第一副会長。
プロレスラーに転向する以前は、読売ジャイアンツのプロ野球選手であった(そのため、日本プロレスのエース時代、TV中継でアナウンサーが意図的に「ジャイアンツ馬場」と呼んでいた事がある)。
性格
基本的におおらかな性格で、小さなころは非常に親孝行で、人との間に角を立てるのが本当に嫌だったという。
野球をしていた当初、一度スパイクシューズを履かずにストッキングのまま練習に出てきてひどく叱られたことがあったが、一向に戻ってスパイクを履こうとはしなかった。巨大なスパイクの中に猫が子供を産んでしまったというのがその理由であった。
契約には厳しいことで知られ、ジャパンプロレスとして参戦していた長州力が契約途中で離脱した際には断固たる措置を取ったという。しかし、天龍源一郎がメガネスーパー社から新団体旗揚げの話を持ち掛けられ全日本の契約終了後にSWSへ移籍した際、(当時団体の移籍は非常識とされていた為)憤慨していたジャンボ鶴田に対して「なぁ、人は裏切るより裏切られた方がまだいいだろう」と優しく諭したのも有名である。これは天龍と馬場の間に十分な話し合いが持たれていた結果であるが、他の契約期間が終了していない全日勢が何人もSWSへ流れていった際には「話が違う」と激怒した。
辞めていった日本人選手を二度と全日本マットに上げることはしなかったが、その弟子はリングに上げた(冬木弘道の弟子の、邪道、外道等)。師匠の事で弟子が巻き添えになる事はマット界ではよくあることだが、馬場は若い芽を摘むようなことは一切せず、師匠の事とは別の事と割り切って、その弟子達をリングに上げた。その点は特に馬場の人柄が表れている。
英語の能力は日本人レスラーでは随一だった。アメリカのレスリング・シーンに多大な影響力を持ったのも英語が良く出来たからだと言われている。
「シュート(真剣勝負・ガチンコ)を超えたもの、それがプロレス」という名言を残した(後に弟子の三沢が小川直也とタッグで対戦し(三沢、力皇vs小川、村上和成)、完全に小川、村上を子供扱いとしてこの名言を体現したような象徴的な試合となった)。他団体が格闘技路線を進めていた頃の全日本プロレスのキャッチコピー「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」や「プロレスとは『プロレス』である」といった名言は、馬場本人のコメントではなく馬場夫妻と数十年に渡ってプライベート含めて親交があった元『週刊プロレス』編集長のターザン山本が考え出したものであるが、馬場がこのコピーを大変気に入っていたことは事実である。
食事作法や礼儀作法、服装などに厳しく、後輩や弟子たちにも徹底的に叩き込んだ。1990年代、全日本の選手たちが決してシャツをズボンから出さなかったことは、馬場の教えが徹底されていたからであり、現在でもお付きだった和田京平や仲田龍、泉田純至らは「エリ付きのシャツでないといけない」という馬場の教えを守り、夏場でもTシャツではなくポロシャツを着ている。選手の茶髪も長い間許されなかったと言う。馬場自身はジーンズも嫌いで、持ってはいたが「あれは作業着だ」と言っていた。
プロレスラーが技を一般人にかけることを非常に嫌っていた。TBSのラジオ番組にゲスト出演していたとき、パーソナリティの松下賢次に何かプロレス技をかけて欲しい、というリスナーからのFAXがあった。馬場は「素人さんにプロレスの技をかけることは、絶対してはいけないこと」と語っている。しかし本人の意思に反し、2007年、アサヒ飲料『WONDA』のCMにおいて、桑田佳祐に対し技を繰り出すプロレスラーとして生前の馬場の映像が合成で使われた。
特大スパイクに住み着いた猫を追い払えなかったエピソードや、喧嘩もろくにした事がないのでプロレス入り当初は困惑したというような話が多くある為か、ジャイアント馬場には紳士的な印象が強く残っているが、自伝にはレスラーの中では喧嘩早い方ではないとはいえ、数多くの武勇伝が記されている(ただしあくまでもリング上での話である)。
嗜好
歴史小説が好きな読書家で、年間200冊以上の本を読み、柴田錬三郎、司馬遼太郎のファンだった。他にも絵画などを趣味に持つ。「引退したら(当時別荘を持っていた)ハワイで絵を描く生活がしたい」と語っていたが、それが現実になることはなかった。『水戸黄門』の大ファンで、欠かさず見ていたという。アイドルとして人気絶頂だった松田聖子に初めて会った時、「テレビは『水戸黄門』しか見ないから知らない」と言ったという話や、初代水戸黄門役の東野英治郎と初めて面会した時は、直立不動の姿勢となり、思わず頭を下げてしまったと回想している。また、初代風車の弥七役の中谷一郎と会った時には「おう、弥七」と声をかけ、うっかり八兵衛役の高橋元太郎と会った際にも「八兵衛」と声をかけたと言う。本編だけを見るため、役者の名前を知らなかったのだ。『水戸黄門』に忍者などのキャラクターが出るようになると「突飛な事はやらない方がいい」と苦言を呈していた。東野時代のような典型的な勧善懲悪ものを好んだ。また、逆に高倉健に会った時にはファンの人かと思い「はい、どうも」と座ったまま握手をした。
ハワイを非常に気に入っていて、オフはよくハワイの別荘で過ごしていた。ハワイマット界にもかかわりが深く、全日本プロレスのタイトル認定機関であるPWFの初代会長ロード・ブレアースはハワイのプロモーターであった。日本プロレス時代の人生設計では、「38歳で日本のプロレス界からは引退し、その後はハワイに引っ越して気楽な隠居暮らしに入る」というつもりだったという。
キャピトル東急ホテルを東京ヒルトン時代から定宿としていたことはよく知られており、馬場〜三沢時代の全日本プロレスの記者会見は殆どキャピトル東急で行われた。また馬場は、関東での大会の後はキャピトル東急のコーヒーハウスである「オリガミ」で食事をしていた。お付きの和田や仲田、番記者の小佐野景浩らはこの「オリガミ」で馬場から食事作法を学んだという(週刊ゴングの増刊号にて、キャピトル東急ホテルの閉館により閉店となる直前のオリガミにて、鈴木みのるが「馬場さんの味を食す」という特集を組んだほど、ジャイアント馬場=キャピトル東急というイメージがプロレス界では定着している)。
大変健康に気を遣うと言われているが、後楽園ホールのロビーでも常に葉巻を吹かしていた。また1990年の骨折入院までは大変な健啖家で、酒に強く(曰く「いくら飲んでも酔わないので酒は面白くない」)大の甘党であったが(あずきの缶詰を常に携帯しており、食事の締めとして餅に付けて食べるのが好きだった)、この事が糖尿病の遠因になった。骨折後は足腰の鍛錬により専心するようになり、毎日恵比寿の自宅から(マンションのエレベーターも使わなかった)六本木にあった全日本プロレスの本社までウォーキングするのが日課だった。若手時代は汗っかきだったが、糖尿病を患って以降は汗をかかない体質になってしまい、以来サウナ好きでもあった。
甘いもの、特にあんこが好きと述べていた。テレビ番組「ニュースステーション」の企画である「最後の晩餐」でも人生最後に食べたいものを大福と答えている。
金銭感覚
負傷のためプロ野球選手の道を断念せざるをえなかったが、プロレスチャンピオンになって年収が3億円を超えたと話す(給料袋が縦に立ったという)。当時のプロ野球界の最高峰であった巨人の「ON(長嶋茂雄や王貞治)が『年俸3千万円、4千万円』などといっていたのを見て、おかしくて笑いが出てしまった」という逸話を晩年に語っていた。ただし、経営者として節税出来たことから、新聞で発表される長者番付の馬場の順位は下位であった。本人のコメントによるとアメリカ時代には1試合で5、6百万稼いでいた。
1本数万円(途中からは1本10ドルのカナダ産)の葉巻を愛用し、キャピトル東急ホテル内「オリガミ」で出される1個2500円のチーズバーガーを食べ、三沢に1個1万円のメロンを潰して作ったメロンジュースを振舞い、新婚旅行の費用をポケットマネーで出すなど、お金の使い振りは豪快なところがあったが、所属選手の年俸は新日本プロレスよりはるかに安かった。また、選手に対する契約に保険や負傷欠場時の給与補填などを制度として行わなかったため、馬場の死後の選手大量離脱の要因となった(馬場死後の新体制はそれを導入する方向だったが、オーナーである元子夫人が「馬場さんの時代にはなかった」と拒否した)。なお、その遺産は、渋谷税務署に8億7千万円と公示された。死後、永源遙は週刊プロレスのインタビューで「猪木さんは金を使うことが好きな人、馬場さんは金を使うことを忘れた人だった」と話している。また、猪木が参院議員に当選後に借金14億円と報道されたのを聞き、「俺との差は30億円ある」と言ったとザ・グレート・カブキが後に述懐している(また「俺ならキャッシュで払える」とも語ったという)。
プロレスラーとの人間関係
力道山からは特別可愛がられた。これは馬場に「元巨人軍投手」という肩書きがあったことと、2mを超える身長に力道山が惚れ込んでおり「これはワシをも凌ぐスターになるかもしれん」と思ったからである。アントニオ猪木はいわば叩き上げであり、従順でなかった猪木を力道山はあまり好んでいなかったとされ、ちょっとしたミスで殴られたり蹴られたりが当たり前だった中、馬場は一度も殴られたことが無いというエピソードがある。また、馬場は入門当初から付き人を経験しておらず、すぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたなど完全な特別扱いであった。
新日本プロレスを旗揚げしてからの猪木の挑発には「何度もはらわたが煮えくり返る思いがした」と自伝に書いているが、猪木には基本的に「同じ釜の飯を食った男」という気持ちがあり、憎しみの感情はみられなかった(馬場が後期の猪木に一貫して持っていた感情は不信感だった)。猪木も同様で、表向きの発言と実際に馬場に会う時の態度は全くと言っていい程違っていた。馬場に対する猪木の言動の裏には、滅多に言い返さない馬場の性格を見越した上での、一種の甘えがあったともされる。
本当に馬場を憎んでいたのは上田馬之助で、日本プロレスの幹部の腐敗ぶりに愛想を付かして退団した馬場と、力道山の作り上げた日本プロレスに最後までこだわっていた上田の感情的なしこりは、日本プロレス崩壊後大木金太郎らと全日本プロレスに移籍する際、上田が仲介者の対等合併の言葉を本気にした事(実際は吸収合併だった)と、馬場が大木・上田ら移籍組を冷遇した(馬場曰く「全日本創立に奔走した仲間と、新日本とうちを両天秤に掛けたような元同僚を同格に扱う事は出来ない」という理由)ことで決定的になったという。日本プロレス崩壊の大きな原因の一つである「猪木追放事件」も、一般には「猪木・馬場らによるクーデター計画の存在を上田が上層部に密告した」ことが原因とされているが、上田は近年になって「実は最初に密告したのは馬場である」と語っており(詳しくは上田馬之助の項を参照のこと)、このことも上田と馬場の関係悪化に大きく影響していたと思われる。ただ、竹内宏介によると「上田が『猪木が会社乗っ取りと馬場の追い落としを企んでいる』と馬場に話して、それを馬場が上層部に話した」という。
プロレスのプロモーター(興行主)としても、NWAに加盟し第一副会長までのし上がったことで世界的に有名であった。ギャラの約束を必ず守り、大物選手はファーストクラスで来日させるなど丁重に扱ったことで外国人レスラー間の評判が高かった。無論当時は「名外国人を本場アメリカから呼ぶことに団体の意義・名誉のあった時代」であり、日本人レスラーへの給与形態などはやや違ったのである。ズル休みなどは大物外国人でも絶対できなかったという。また力が衰えてきてもそれなりのポジションで来日させ続けた。アブドーラ・ザ・ブッチャーやドリー・ファンク・ジュニアなどは1990年代中盤まで回数は減ったものの来日し続けている。
NWA副会長であり、WWWF(現WWE)発足の頃すでに大スターだったことから、ビンス・マクマホン・ジュニアも、馬場に対しては頭が上がらなかった。マクマホンがWWFとして日本マット界を傘下に治めようと奮闘していたとき、馬場はNWA第一副会長として一喝したことがある。後に馬場は「マディソン・スクエア・ガーデンで世界王座に挑戦したときにほんの子供だったこんな小僧に翻弄されてたまるか」と述懐している。
外人頂上決戦は、全日本ならではの名物メインであった。創立1年強の1974年1月には早くもジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、ドリー・ファンク・ジュニアとNWAの現・前・元王者を招聘し、日本陣営の馬場本人や鶴田、ザ・デストロイヤーと連日夢の顔合わせが展開された。またタッグマッチではザ・ファンクス対地上最凶悪コンビ、ファンクス対超獣コンビ、ハンセン、ジョニー・エース(もしくはダニー・スパイビー)組対殺人魚雷コンビのカードは出色で、猪木がメインとして絡む事の多かった新日本とは対照的に、マッチメイクにも柔軟性があった。1985年には、NWA王者リック・フレアー対AWA王者リック・マーテルという本場米国でもなかったNWA・AWA両世界王者のダブルタイトル戦も実現させた。
付き人だった大仁田厚を特別可愛がり、一時は本気で養子縁組を考えたこともある。大仁田が馬場の付き人をしていた頃、興行に馬場の赤いパンツを持って行くのを忘れたことがあった。困った大仁田は、同じ会場に赤いパンツを履く身長2mの外国人選手がいたため、この選手の控室に忍び込んでパンツを盗んだ。馬場はそのパンツで試合に勝ったものの、何かおかしいと気づき、「このパンツ俺の?」と大仁田に聞いた。大仁田は「外国人選手から借りてきました」とウソをついたが、馬場はこの嘘を即座に見破り「馬鹿野郎、貸すわけないだろ!」と怒鳴って張り手タイプの空手チョップを食らわせた。そして洗濯して返すようにと命じ、3日間口をきかなかったという。その後、別の興行で大仁田はまたしても馬場のスーツのズボンを忘れたが、素直に謝ったところ、馬場は何も言わず興業中の約1ヶ月間、スーツに赤ジャージのズボン姿で通した。
1987年11月、所属選手のハル園田(マジック・ドラゴン)が、全日本プロレスから派遣されて南アフリカ共和国のプロレス興行に参戦する際に、結婚したばかりの園田夫妻にポケットマネーを提供して、興業後の新婚旅行を奨めた。ところが、南アフリカに向かう飛行機がインド洋上で南アフリカ航空295便墜落事故によって墜落。ハル・園田とその夫人が事故死することとなった。馬場は生涯、園田の派遣と新婚旅行を奨めた事を悔やんでいたという。リング上で弔辞を読んでいる時に号泣した。
世界中のプロレス界を股にかけた大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントが最後に選んだリングは、天龍一派の大量離脱で黄昏時を迎えていた馬場全日本だった。二人がコンビを組んでいた頃「馬場とアンドレが天の川で流しソーメンを食べていた」などという伝説が流れた事もある。実際二人は、互いに並外れた巨体を持つ故の孤独を理解できたのか大変仲がよく、話し相手に困らないようにと、アンドレの若手時代からの親友であるマイティ井上を話し相手として帯同させ、アンドレ参戦時の外国人用移動バスの冷蔵庫には、アンドレ好みのワインが常に置かれていたという。
芸能人との関係
彼の体の大きさはよく芸能人のネタにされた。
ビートたけしには「巨人時代、ボールを投げようとしたら捕手の森の頭を叩いてしまった」「投げた瞬間にキャッチャーをまたいでしまうため、野球をやめた」「タクシーに乗ろうとしたら、左のドアから右のドアに出てしまい、乗れなかった」「車のサンルーフから頭を出して運転していた」「飛行機に乗る時は、両手を翼の中に入れて、腹這いになる」「ゴルフもショートコースはパターしか使わない。カップインしたボールを取り出そうとしたら、グリーンも一緒に持ち上がった」「一緒に飛行機のファーストクラスに乗った時、前の席に座っていた馬場さんがシートを180度倒したらオレの腹の部分に頭がのった」など。
これらのネタは、学生時代に「ビートたけしのオールナイトニッポン」の熱心なリスナーであり投稿者でもあった、消しゴム版画家でエッセイストでもあったナンシー関が考えたとも言われる。本人も著書の中で、ジャイアント馬場の大きさについてのネタを考え出すといくらでも浮かぶと語っている。
ダウンタウンの松本人志もカーナビで馬場の居場所が写るとネタにしたり、「ダウンタウンのごっつええ感じ」でも馬場をネタにしたコントがあった。
島田紳助もトークで時々馬場のネタを使うことがよくある。それで「クイズ紳助くん」では馬場を崇拝している円広志が怒るというパターンが何度もあった。
ジャイアントコーンのCMで共演した酒井法子がデビュー当時使っていた「のりピー語」で「馬場ピー」は「大きい」を意味していた。CM撮影時に一口かじったアイスを、スタッフが「処分しますので」と引き取ったが、馬場は「勿体ないよ」と言うと、最後まで食べたというエピソードがあり、酒井法子は「身長だけでなく、心も大きい人でした」と語っている。また、第12回アメリカ横断ウルトラクイズの第4チェックポイントで「馬場ピー」の意味について出題され、この回の準優勝者となる解答者が、「汚い。」と珍解答をしてしまい、司会者の福留功男が「馬場さんが怒るよ」と説教した挙句、その後はその解答者のニックネームにもなってしまった。
女優の水野久美は同郷で上京前からの友人。馬場にとって水野はマドンナで、上京後、互いに下積み時代だった頃も馬場は水野の引っ越しを手伝ったりした。
シンガーソングライター松山千春とも親交があった。自ら出していた月刊誌にジャイアント馬場との対談を発表したこともある。松山は馬場の逝去後、1999年8月に「Champ never die」という曲を発表、馬場に捧げている。
2006年8月NHK教育テレビ知るを楽しむ私のこだわり人物伝で、4週にわたり香山リカがジャイアント馬場について語った。香山は少女時代、馬場に抱き上げてもらったことがある。
B'zのシングル曲『ギリギリchop』は、プロレスファンである稲葉浩志が馬場の死に哀悼の意を込めてタイトルを付けたとライブのMCで語っている。
亡くなる約2ヶ月前に「徹子の部屋」へ2週にわたり出演したが、奇しくもこれが一般視聴者にプロレスについての最後のメッセージの場となった。馬場は受けの説明等を行い、この時初めてテレビで歌も歌った。また弟子(ハル園田)の飛行機事故死がきっかけで飛行機が怖いとコメントして、黒柳徹子にスクワットのやり方を教えた。黒柳はこれがきっかけで今でも毎日スクワットをしている(黒柳は「スクワットは馬場さんの遺言」と語っている)。
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